遊びの終わり


第一幕 光の当たらない場所


第1章 もう一つの春

縁側から、山が見えていた。

蓮の横顔があった。夜の稜線があった。遠くの沢の音があった。

澪はあの春の夜のことを、何度も取り出して確かめた。仕事の帰り道で、デスクについた朝に、シャワーを浴びながら。確かめるたびに、その夜はほんの少し磨耗した。思い出すということは、失い続けることでもある。それでも取り出すのをやめられなかった。

旅館の縁側を最後に、蓮は何も言わなかった。言葉ではなく、あの夜に並んで座ったことが、何かを決めた。二人の間で、言語化しなかったものが一つある。それで十分だと思っていた。

四月になった。

渋谷のオフィスでは新しいプロジェクトが動いていた。澪が提案した「遊びのデザイン」、正式名称「Shiro ver.3.0 コンセプト設計」だ。半年かけて新しいユーザー体験の骨格を作り、それをプロダクトに落とし込む。社内でも期待値の高いプロジェクトだった。

澪はリードデザイナーとして、設計の全体を引っ張ることになっていた。

引っ張る。それが私の役割だと、ずっと思ってきた。前を走ることが、強さの証明だと。でも今は少し違う景色が見えている。引っ張るよりも、一緒に歩けるかどうかの方が、大事な気がし始めていた。

デスクの観葉植物に水をやった。葉が青い。

松田が「今日、何かいいことありました?」と言った。

「なんで」

「顔が違うんで」

澪は少し考えた。顔が違う、か。

「長野から帰ってきてから、少し違う気がする」

「そういえば、お父さん、退院されたんですよね。よかったです」

「うん。ありがとう」

松田に素直に礼が言えた。それが以前より自然にできた。その小さな変化を、澪は確かに感じた。


水曜日の夕方に、石川に呼ばれた。

プロダクトマネージャーの石川は、いつもと違う表情をしていた。目の前に資料がある。印刷されたもので、澪が見慣れない書式だった。

「神崎さん、今週末に経営会議があって、そこで新コンセプトについてのプレゼンをしてほしいんだ」

「来週でなく、今週末に?」

「急に決まった。代表が見たいって言ってて。この機会にプロジェクトの方向性を固めたい、という話になってる」

「四月に入ったばかりで、まだコンセプトの骨格が——」

「半分でもいい。方向性だけでも見せてほしいという要望だから」

澪は「分かりました」と言った。

言ってから、自分が少し速く答えたことに気づいた。以前なら「分かりました」の前に「この条件であれば完成度はどの程度が許容されますか」と確認していた。でも今日は確認しなかった。方向性を見せる、という意味を直感的に理解して、動いた。

前よりも、即座に。でも——今の私の即座は、昔の私の即座と、何が違うのか。自信から来るのか、焦りから来るのか。まだ区別がつかない。


金曜日の夜まで、澪はプレゼン資料を作り続けた。

「遊びのデザイン」を、経営陣に伝えるための言語が必要だった。機械の歯車の話、ハンドルの遊びの話。そういう比喩は分かりやすいが、それだけでは弱い。数字が要る。ユーザーデータが要る。なぜ今の設計に「遊び」が足りないのか、証明する必要がある。

木曜日の深夜、澪はデータを見ていた。

Shiro ver.2.0ローンチ後のユーザー行動分析データだ。定着率、継続利用率、機能ごとのドロップオフ率。一つひとつのグラフを眺めながら、何かが引っかかっていた。

ドロップオフ率のグラフ。新しいカテゴリ分類機能を使い始めて七日目に、急激に使用頻度が落ちていた。

澪は眉を寄せた。

ローンチ後のバグ対応で、一部ユーザーの定着率データが欠損していた可能性があった。その欠損を補完した際の処理に、澪は関与していなかった。松田が対応していた。松田がどのロジックで補完したかを、澪は確認していなかった。

確認するべきだった。でも、バグ対応で忙しい時期に、信頼していた。信頼、と言えば聞こえがいい。見ていなかった、というだけかもしれない。

深夜零時が過ぎていた。明日のプレゼンまで、十時間もない。

今夜、確認しても仕方がない。もし問題があれば、プレゼン後に調べればいい。

澪はそう判断して、資料の作成を続けた。

この判断が、正しかったかどうかを、後で澪は長い間考え続けることになる。


第2章 経営会議のプレゼン

土曜日の午前十時、Shiro Inc.の会議室に、代表の桐島を含む経営陣が四人揃っていた。

澪は正面のスクリーンに向かって立った。手元にマウスとレーザーポインター。松田と田中が後列に座っている。

「お時間をいただきありがとうございます。今日は『遊びのデザイン』というコンセプトをご説明します」

最初の五分は順調だった。歯車の遊び、ハンドルの遊び、「硬すぎる設計は壊れやすい」というアナロジーを説明すると、桐島が何度か頷いた。

次に、現状のShiroのユーザーデータを示した。

その瞬間だった。

「このドロップオフデータなんですが」と桐島が言った。「ver.2.0のバグ対応後に補完されたデータが含まれていると思うんですが、補完のロジックは確認済みですか」

澪の手が止まった。

「松田くんが対応したもので」

「つまり、神崎さん自身は確認していない?」

「……詳細なロジックは、まだ確認できていません」

桐島が隣の役員に何か言った。石川の顔が曇った。

「少し待ってください」と澪は言って、松田に目を向けた。松田が立ち上がって、手元のPCで補完ロジックを確認し始めた。

会議室に沈黙が落ちた。

三分が過ぎた。

「神崎さん」と松田が言った。声がわずかに上ずっていた。「補完のアルゴリズム、一部のセグメントで前後の平均値を取っているんですが、七日目前後のデータが元々欠損しているユーザーの割合が、全体の二十パーセントを超えていて。つまり、提示しているドロップオフのグラフが」

「実態を反映していない可能性がある」と澪は言った。

「はい」

桐島が静かに言った。

「神崎さん、コンセプトは面白いと思います。でも、現状のデータが正確でないなら、このコンセプトの必要性の根拠が成立しない。今日のプレゼンは、いったん保留にしましょう」

「……はい」

「データの再確認と、正確な分析を出してもらってから、改めて判断します」

澪はスクリーンを切った。

プレゼンが止まった。自分の設計の根拠が、確認不足によって崩れた。それは技術的なミスではない。怠慢だ。正確には——信頼することと、確認しないことを、混同していた。私はいつから、確認をやめていたのだろう。

会議室を出るとき、石川が「後で話しましょう」と言った。

澪は「はい」と答えた。声が、いつより小さかった。


第3章 石川の言葉

月曜日の午後、石川と一対一で話した。

「神崎さん、少し聞いてもいいですか」

「どうぞ」

石川は静かだった。責めていない。でもその静かさが、今日は澪に重かった。

「この半年、神崎さんの仕事ぶりを見ていて、変わってきた部分があると感じていました。いい意味での変化もあったと思う。でも——土曜日のことは、少し気になっていて」

「データの確認不足です。私の判断ミスでした」

「そこじゃなくて」石川は少し考えた。「神崎さん、自分がリードするものについて、以前はもっと細かく確認していた。松田くんにもほかのメンバーにも。それが最近、確認の手が薄くなっている気がしていて。チームへの信頼というより、少し気持ちが別の場所にある、という感じが。私の気のせいかもしれないけど」

澪は石川の言葉を聞きながら、何も言えなかった。

別の場所。蓮のことだろうか。でも石川には、何も言っていない。なのに、見えている。プロとはそういうものだ。仕事への集中の薄さは、どこかに出る。どんなに整えた顔をしていても、出る。

「今回のプレゼン、二週間後にリセットして出し直しましょう。データの再分析から始めてください」

「はい」

「神崎さん、あなたの力を疑っているわけじゃない。ただ——今、どこにいるか、自分でちゃんと確かめてほしい」

澪は「ありがとうございます」と言った。

会議室を出て、廊下に立った。窓の外、渋谷の街が見えた。

今、どこにいるか。石川の言葉は、仕事の話をしていた。でも澪には、仕事以外の場所にも刺さった。私は今、どこにいるのか。蓮の隣にいるのか、自分の仕事にいるのか、長野の父の病室の記憶の中にいるのか。どこにも、ちゃんといない気がする。遊びのある設計を作りたいと言いながら、私自身が、どこにも根を張っていない。


第4章 蓮の部屋

木曜日の夜に、蓮のアパートに初めて行った。

下北沢の裏通りにある木造のアパートで、二階の端の部屋だった。呼び鈴を押すと、すぐに出てきた。

「いらっしゃい」と蓮は言った。

六畳ほどの部屋に、机と本棚と、折りたたみのベッドがあった。物が少ない。本棚には照明の技術書と、薄い詩集が並んでいた。窓際に、小さな照明器具が一つ置かれていた。舞台で使うものより小さい、卓上サイズのスポットライトだ。

「使ってるの?」と澪が聞いた。

「夜に、読むときに」

「天井の照明は?」

「眩しいので、あまり」

卓上スポットライトが一つ、本棚の上に乗っていた。その光だけが部屋の一角を照らして、残りは暗かった。照らした場所だけが見える部屋。照らされていない場所は、影の中に沈んでいた。

澪は部屋の中を見回した。

「蓮さんの部屋って、あなたにそっくりですね」

蓮が少し驚いた顔をした。

「そっくりって、どんなふうに」

「必要なものだけある。でも、どこかが暗い」

蓮が静かに笑った。初めて見た笑い方だった。

「……そうかもしれない」

二人でソファ代わりのビーズクッションに座って、コーヒーを飲んだ。話すとも、話さないとも決めずに、ただそこにいた。

しばらくして、澪が言った。

「土曜日のプレゼン、失敗した」

「聞いてました」

「聞いてたの?」

「メッセージで少し教えてくれていたので」

澪は温かいコーヒーカップを両手で包んだ。

「データの確認を怠ってた。信頼と放置を混同していた。石川さんに、どこにいるか分からなくなっていると言われた。あながち間違っていないと思う」

蓮は何も言わなかった。聞いている。

「蓮さんと会い始めてから、仕事の見え方が変わった。それはいいことだと思っていた。でも、変わることと、足元を見失うことは、別の話だったのかもしれない」

「……それは、私のせいですか」

澪はしばらく考えた。

「違う。でも、関係がないとも言えない。あなたのせいにするつもりはない。ただ、正直に言いたかっただけ」

蓮がコーヒーカップを置いた。

「澪さんは、正直すぎるときがある」

「悪いこと?」

「悪くない。ただ、正直さを武器にして、自分を責めているときがある。それが少し、見ていてつらい」

澪は口を閉じた。

蓮が初めて、澪を名指しで何かを言った。評価ではなく、感情の話として。

見ていてつらい。私が何かを感じているとき、蓮さんも何かを感じている。それが当たり前のことなのに、ずっとそれが怖かった。誰かに見られて、何かを感じさせてしまうことが。でも今、この小さな暗い部屋で、蓮さんがそう言った。それで少し、息が楽になった。

外から、下北沢の夜の音が聞こえた。どこかで笑い声がした。


深夜に、澪は蓮のアパートを出た。

玄関で靴を履きながら、ふと振り返った。

「蓮さん、また来てもいいですか」

蓮が「はい」と言った。

「来週も?」

「はい」

「再来週も?」

「……はい」

澪は笑った。声を出して笑った。蓮も笑った。二人で笑った。下北沢の夜の中で、ドアの前で、どちらかが笑い始めて、もう一方も笑い始めた。

理由が分からなくても、笑えた。

これが、遊びなのかもしれない。意味を後から決めることができる、余白。あらかじめ決まっていない、時間の使い方。私はずっとそれを知らなかった。


第二幕 ひびの入った設計


第5章 プロジェクトの地盤

データの再分析に、二週間かかった。

松田と田中と三人で、バグ対応後の補完データを洗い直した。予想していたより問題が深かった。補完の誤差が積み重なって、一部のセグメントでは実際のユーザー行動とデータの間に、最大三十パーセントの乖離が生じていることが分かった。

「これ、ver.2.0のローンチ後の評価も、正確じゃなかったことになりますね」と松田が言った。

澪は頷いた。

「新機能の評価が高く出ていた部分の、一部が崩れる可能性がある」

「崩れるって、どのくらい?」

「楽観的に見て、効果が二割くらい小さかったかもしれない。悲観的に見ると……」

澪は続きを言わなかった。言わなくても、松田には伝わっていた。

田中が手を止めて言った。

「神崎さん、これ、石川さんに今すぐ報告した方がいいですか」

「うん。今日の夕方、私から報告する」

「……神崎さんのせいじゃないですよ、これ」

田中の言葉が、思わぬ角度から来た。

「バグ対応のドタバタの中で、補完ロジックまで全部確認するのは、普通できないと思うので。神崎さんが確認してなかったのは、仕方なかったと思う」

澪は田中を見た。

「田中くん」

「はい」

「……ありがとう。でも、確認しなかったのは私の判断だから。仕方なかった、で終わらせたくない」

田中が神妙な顔で頷いた。

以前の私なら、こんな言葉を受け取れなかった。後輩に労われることを、弱さと感じていたから。でも今日は受け取れた。受け取った上で、自分の責任も取れた。それが少しだけ、以前と違う。でも——状況は変わらない。データが崩れている事実は、変わらない。


石川への報告は、予想より長くなった。

「プロジェクトへの影響は」

「コンセプトの方向性は正しいと考えていますが、現状データを根拠にした部分の再設計が必要です。ただ——実は、もう一つ問題があって」

石川が顎を引いた。

「ver.2.0の新機能評価、一部のメトリクスが過大評価されていた可能性があります。マーケティングの三上さんが使っているKPIに、その数値が含まれているかもしれない」

石川が目を細めた。

「つまり、対外的な発表資料にも、影響が出るかもしれない、と」

「はい」

沈黙があった。石川は椅子の背もたれに体を預けた。

「神崎さん、これ、外に出た数字はありますか」

「先月の投資家向けレポートに、月次アクティブユーザーの推移と、新機能の利用率が含まれています。三上さんが作成したものですが、ベースになったデータは、私たちのものです」

「分かった。三上さんと一緒に確認しましょう。状況によっては、修正開示が必要になるかもしれない」

投資家向けの修正開示。それが何を意味するか、澪には分かっていた。会社の信頼の問題だ。単なる設計ミスの話ではなくなる。

自分の確認不足が、どこまで波紋を広げるか。データはつながっている。設計はつながっている。どこかで妥協した一点が、遠いところで別の形の問題を作る。それはUXの設計原則として知っていた。でも自分の行動についても、同じことが起きるとは——分かっていたはずなのに、分かっていなかった。


第6章 三上の言葉

翌日、マーケティングの三上に話を通した。

三上は四十代の、実績のある人間だった。穏やかで、数字に強く、プレゼンがうまい。澪とは良好な関係を保ってきたが、深く話したことは少なかった。

経緯を説明すると、三上は最初から最後まで表情を変えなかった。

「神崎さん、一つ確認させてもらっていいですか」

「はい」

「このデータの問題を、いつから把握していましたか」

澪は正直に答えた。

「データの確認不足は、先週の経営会議の場で初めて公になりました。詳細な問題の全容は、今週の再分析で明らかになっています」

「つまり、私が投資家向けレポートを作成した時点では、神崎さんもこの問題を把握していなかった、ということですか」

「その通りです」

三上は少し間を置いた。

「であれば、私が誤った情報を使ったことも、結果論です。今回の件は、連携不足と確認不足の問題として整理しましょう。お互いに、今後の対応を優先する方が建設的だと思うので」

丁寧な言い方だった。でも澪には、「連携不足と確認不足」という言葉が、自分への評価として刻まれた。

三上さんは責めなかった。それが逆に重い。謝ってほしい、怒ってほしい。でも彼女は仕事の人間として、前に向かった。その分、私だけが自分を責め続ける形になった。

「三上さん、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

三上が初めて、少し柔らかい顔をした。

「神崎さん、あなたが謝っているのは初めて見た気がします」

「……そうですか」

「悪いことじゃないと思う。ただ——次は確かめてください。自分が信頼することと、確認しないことを、混同しないように」

石川と同じ言葉だった。


投資家向けの修正開示は、二週間後に行われた。

影響は限定的だったが、数値の一部修正は会社の信頼の問題として、役員会で議論されることになった。石川から「役員会に神崎さんにも出席してもらいたい」という連絡が来た。

当日の会議室に、代表の桐島、役員二名、石川、三上、そして澪が入った。

桐島が最初に言った。

「今回の件は、データ管理のプロセスの問題として、会社全体で改善を進めます。個人の責任を問うつもりはありません。ただ——神崎さん、コンセプトプロジェクトについては、少し立ち止まって考えてほしい」

「はい」

「『遊びのデザイン』という方向性を否定するわけじゃない。でも、そのコンセプトを作っている当人が、足元のデータの確認をしていなかったというのは——少し矛盾がある。遊びのある設計は、遊びのない確認の上に成り立つはずだから」

澪は答えられなかった。

桐島さんは正しい。遊びのある設計を作ろうとしながら、基礎的な確認を怠った。それはコンセプトへの裏切りでもある。私は、言葉を先に持って、足元を後回しにした。何かが変わり始めた、と思っていた。でも変わったのは言葉だけで、習慣はまだ変わっていなかったのかもしれない。

役員会が終わって、廊下に出た。

誰も声をかけなかった。澪も、誰にも何も言わなかった。エレベーターに乗って、ロビーに出て、オフィスビルの外に立った。

渋谷の午後の光が、眩しかった。


第7章 沙良からの電話

翌週の火曜日の夜、沙良から電話がかかってきた。

「澪、少し話せる?」

声のトーンが違った。いつもの明るさがない。

「話して」

「会いたい。今日、無理そう?」

「大丈夫。どこで」

渋谷の公園に来た。この公園には、正樹の話を沙良から聞いた夜に来た。同じベンチに、並んで座った。

沙良が先に口を開いた。

「正樹から連絡が来た」

澪はベンチの木目を見た。

「なんて」

「会いたいって。澪と別れてから、何度か連絡してきてて。最初は無視してたんだけど、先週……一回だけ、会った」

澪は何も言わなかった。

「ごめん」と沙良が言った。「澪に言わなきゃいけないと思って。でも——澪が正樹と別れたのは、正樹のせいでも私のせいでも、たぶんないと思って。澪はもっと前から、別の気持ちがあったと思うから。だから——責めてくれてもいい。でも、隠したくなかった」

沙良の言葉は、正確だった。澪が正樹と別れた理由に、沙良のことや正樹の裏切りは、直接の原因ではなかった。蓮のことも、正確には違う。澪が正樹の隣で、ずっと息を少しだけ止めていたことが、根にあった。

でも今夜、沙良のこの言葉を聞いて、澪の中で何かが静かに割れた。

沙良は正しい。でも——正しいことと、感情は別だ。私は正樹を「正解」として選んでいた。沙良は、その正樹を、私と付き合い始める前から知っていた。それが、今でも続いている。私が失ったものの中に、沙良との関係も含まれていたのだ、と今夜初めてはっきり分かった。

澪は立ち上がった。

「分かった」

「怒ってる?」

「……怒ってるかどうか、まだ分からない。ただ、今夜は一人でいたい」

「うん」

「沙良が話してくれてよかった。それだけは、本当に思う」

沙良の目が赤くなっていた。澪は見ないようにして、公園を出た。

夜の渋谷の人混みの中を、ひとりで歩いた。泣かなかった。泣けなかったのではなく、まだ何かが落ちてきていなかった。

感情は、遅れてやってくる。それは知っている。今夜の感情は、明日か、明後日か、一週間後に来るかもしれない。それまで、ただ歩く。


第8章 ライトが消えた後

「遊びのデザイン」プロジェクトは、凍結された。

正式な決定ではない。石川が「今期はいったん別のプロジェクトを優先する」と言い、澪への割り当てが変わった。新しいタスクは、ver.2.0の改善対応だ。つまり、修正作業。コンセプトではなく、バグの後始末だ。

「私がやります」と澪は言った。

石川が「もちろん」と言った。

「でも、神崎さんのためにもならないから、早めに別の担当に引き継ぎたいと思っています。そのためにも、正確に整理してほしい」

後始末を整えて、次に渡す。その言葉の意味を、澪は静かに受け取った。

プロジェクトを引き継ぐということは、私が次のステップに進めるということでもある。でも今の私には、その「次」が見えない。足元が崩れた後、次の足場がどこにあるか、まだ分からない。

田中が「神崎さん、これ」と言って、コーヒーを持ってきた。

松田は黙って、改善対応のドキュメントを整理し始めていた。誰も何も言わなかったが、チームが澪の周りで静かに動いていた。

澪は画面を見ながら、その動きを感じていた。

私は今まで、チームに何を与えてきただろう。ミスを指摘してきた。方向性を決めてきた。でも、この静かな動きを、私は誰かに渡したことがあるだろうか。誰かが崩れたとき、こんなふうに、近くで動いたことがあるだろうか。

分からなかった。


金曜日の夜に、蓮と神楽坂を歩いた。

蓮が「今日、どうでしたか」と聞いた。

「プロジェクトが凍結された。今月から、修正作業の担当になった」

「……そうですか」

「私の確認不足が、いくつかの問題を生んだ。プロジェクトだけじゃなく、対外的な数字の問題にもなった。チームにも、三上さんにも、石川さんにも、迷惑をかけた」

蓮は黙って歩いていた。

「蓮さん、何か言ってください」

「何を言えばいいですか」

「何でもいい。聞いてほしい」

蓮が立ち止まった。

「聞いています」

澪も立ち止まった。夜の神楽坂の坂の途中で、二人が向かい合った。

「怒らないんですか、私に」

「怒る理由がない」

「仕事でミスした。人に迷惑をかけた。自分の過信が原因だった」

「それは、澪さんが悔やんでいることです。私が怒ることじゃない」

澪は目を伏せた。

「蓮さんは優しすぎる。それが、逆に苦しいときがある」

蓮が少し間を置いた。

「優しいんじゃないと思います。ただ、怒ることが——まだうまくできないだけで」

澪は顔を上げた。蓮の顔を見た。

「それも、正直に言うんですね」

「澪さんが正直に話してくれるから」

神楽坂の風が吹いた。二人の髪が揺れた。

蓮さんはまだ、怒ることがうまくできない、と言った。それが亡くした人のせいなのか、それとも元々そういう人なのか、私にはまだ分からない。でも、できないことを言える人が、隣にいる。それが今夜、少しだけ温かかった。


第三幕 崩れる音


第9章 本社の決定

五月に入ったころ、石川に呼ばれた。

会議室に入ると、石川の隣に人事部長がいた。初めて同席する組み合わせだった。

「神崎さん、座ってください」

嫌な予感がした。座った。

「今期の組織改編についてお話ししたいのですが」

澪は動かなかった。

「デザインチームの体制を少し変えることになりました。リードデザイナーの役割を、二名体制にします。神崎さんには引き続きチームにいてほしいのですが、プロジェクトリードの一部を、外部から採用するシニアデザイナーに移す形を取りたいと思っています」

「……降格ではない、ということですか」

「役職の変更はありません。ただ、プロジェクト全体の責任範囲が変わります」

実質的な降格だ。澪はそれを言わなかった。言う必要がなかった。石川も言わなかった。言わないことが、答えだった。

「理解しました。引き続き、よろしくお願いします」

「神崎さん、これはあなたへのペナルティじゃない。チームの体制として、複数のリードがいる方が健全だという判断です」

「はい」

「ただ——正直に言うと、今回の一連の件が、判断の一因になっていることも否定しません」

「分かっています」

人事部長が「何かご質問はありますか」と言った。

「ありません」

会議室を出た。廊下を歩いた。エレベーターのボタンを押した。

鏡張りのエレベーターに乗った。

以前もここに立った。正樹のマンションを出た日。あのときは、崩れていなかった。今日は、崩れた。何かが割れた、という感覚が、エレベーターの中に閉じ込められている。鏡の中の自分の顔が、少し遠い。でも今日は、よく知らない人の顔には見えない。これが私の顔だ。崩れた日の、私の顔だ。

一階に着いた。ロビーを歩いた。外に出た。

五月の光が、眩しかった。


第10章 夜の電話

その夜、澪は蓮に電話しなかった。

沙良にも、正樹にも、母にも。誰にも電話しなかった。

自分のアパートに帰って、電気もつけずに部屋に入った。靴を脱いで、コートのまま椅子に座った。

暗い部屋の中に、夜の渋谷の光が窓から差し込んでいた。光が部屋の床に落ちて、菱形に広がっていた。

澪はそれをしばらく見ていた。

照らした場所だけが見える。蓮さんはそう言っていた。隠せない、とも言っていた。今夜この部屋で、光が照らしているのは、コートを着たまま椅子に座っている私だ。隠す必要もない。誰も見ていないから。でも、見ていなくても、形は変わらない。これが今夜の私の形だ。

午前一時になった。

スマートフォンが光った。母からのメッセージだった。

「お父さんの検診で、少し数値が気になる所があるって先生に言われた。大事じゃないと思うけど、念のため連絡しておく」

澪はメッセージを読んだ。

「分かった。何かあればすぐ連絡して」と返した。

既読になった。返信は来なかった。

父の心臓。また。

澪は電気をつけた。部屋が明るくなった。本棚が見えた。デスクが見えた。観葉植物が見えた。植物の葉が、また少し枯れかけていた。

水をやるのを、この一週間、忘れていた。


翌朝、オフィスに行くと、新しいシニアデザイナーの紹介が行われた。

三十五歳の男性で、大手のWebサービスで五年間リードデザイナーをしていた経歴があった。礼儀正しく、説明が明快で、チームの歓迎会では自分の実績を過不足なく伝えていた。

澪は笑顔で「よろしくお願いします」と言った。

チームの何人かが、新しいデザイナーの話を熱心に聞いていた。松田が「面白い観点ですね」と頷いていた。田中が「今まで気づかなかった視点だと思います」と言っていた。

澪はその光景を、少し離れた場所から見ていた。

私がリードしていたときも、こんなふうに聞いてもらっていただろうか。それとも——指示を聞いていたのであって、面白いと感じていたのではなかったかもしれない。面白いと、正しいは、違う。私はずっと、正しいものを作ろうとしてきた。でも、一緒に面白がることを、してこなかった気がする。

歓迎会が終わった後、田中が澪に「神崎さん、どうですか、新しい方」と聞いた。

「よさそうな方だね」と澪は言った。

「神崎さんと二人体制で、チームがもっと良くなりそうで、楽しみです」

田中の言葉は、純粋だった。

「そうだね」と澪は言った。

それ以上、言葉が出てこなかった。


第11章 父の再入院

六月の第一週、母から電話がかかってきた。

「澪、お父さんが再入院することになった」

「いつ?」

「今日の昼から。検診でひっかかってた数値がね、一気に悪くなって。先生が念のため、って言って。念のためじゃないと思うけど」

和子の声が、わずかに震えていた。

澪は仕事のスケジュールを頭の中で確認した。来週、石川との定例がある。再来週、新しいデザイナーとのブレストがある。今週の残りのタスクを——

「澪」と和子が言った。

「……うん」

「来られそうなら、来てほしい。お父さんは来なくていいって言うと思うけど、私が来てほしい」

「明日、行く」

電話を切った。

翌朝の新幹線で長野に向かった。仕事の調整は、石川に短くメッセージを送った。「家族の事情で」と書いた。石川は「行ってきてください」と返した。

それだけだった。


病室の父は、前回より顔色が悪かった。

点滴の本数が増えていた。モニターの数値が並んでいた。退院してから四ヶ月。手術で治ったはずだったのに、また。

「来なくてよかったのに」と徹が言った。

「来たかったから来た」と澪は言った。

徹は黙った。

澪は椅子を引いて座った。窓の外は曇り空だ。長野の六月は、まだ肌寒い。

しばらく無言が続いた。

「仕事はどうだ」と徹が聞いた。

「……少し、難しいことがあった」

「そうか」

「私の確認不足で、プロジェクトに問題を起こした。周りに迷惑をかけた。私のリードの役割も、一部他の人に移った」

徹は天井を見たまま言った。

「それで」

「それで、しんどい」

初めて言えた言葉だった。父に。

徹が少し間を置いて、言った。

「わしも、何度もやらかした。会社を始めて最初の十年は、毎年何かをやらかして、取引先に頭を下げ続けていた」

「知らなかった」

「言わなかったからな」

澪は父を見た。点滴の管の先に、静脈があった。その静脈の中を、血が流れていた。心臓が動かしている血。手術した、あの心臓が。

「お父さん、正直に言っていい?」

「言え」

「お父さんのことが、怖かった。完璧な人だと思ってた。だから、完璧でなければならないと思って生きてきた。でもお父さんは最初から完璧じゃなかった。それを知ったとき、怒りがあった。でも今は——安心してる部分もある」

徹が少し咳をした。

「安心、か」

「完璧でない人の子だから、私が完璧でなくていいと、許せる気がして」

長い沈黙があった。

「……お前は、わしより賢い」

「そんなことない」

「そんなことある。わしは今でも、自分のことを許せていない。お前はもう、許している」

澪は答えなかった。

許していない部分もある。でも、今日はこの部屋で、それを言わなかった。

今日の父の言葉が、贈り物なのか、謝罪なのか、澪には分からなかった。でも、点滴をつけた父が天井を見上げながら言った「わしは今でも許せていない」という言葉は、父が初めて自分の弱さを澪に見せた言葉だった。それが、遅すぎたかもしれない。でも届いた。届いたことは、本当のことだ。


第12章 蓮の距離

長野から東京に戻って、蓮に会った。

下北沢の、いつものコーヒー屋だ。蓮はすでに来ていた。ホットコーヒーを二つ、頼んでおいてくれた。

席に座って、コーヒーを受け取った。

「お父さん、どうでしたか」

「少し、悪くなっていた。回復するとは思うけど、前よりは弱くなっていくと思う」

「そうですか」

「蓮さん、今日は何か言いたいことがある顔してますね」

蓮が少し驚いた顔をした。

「……分かりますか」

「分かります」

蓮はコーヒーカップを両手で包んだ。

「澪さん、最近、少し——しんどそうです」

「しんどいです」

「私と会うことで、負担になっていることはないですか」

澪は蓮を見た。

「どういう意味ですか」

「仕事のことも、お父さんのことも、いろいろが重なっていて。その上に、私のことまで考える余裕が、今の澪さんにあるかどうかと思って」

澪は少しの間、黙っていた。

「蓮さん、それは——引こうとしてますか」

「……引くという言い方は、正確じゃないかもしれないけど」

「でも距離を取ろうとしてる」

蓮が目を伏せた。

「私が、また誰かを失うのが怖い、という話は——以前しましたよね」

「はい」

「澪さんが今、いくつもの場所で同時に何かを失っている。それを見ていて、怖くなっています。怖いから離れようとしている、それは正直に言うと、そうかもしれない」

澪はコーヒーカップを置いた。

「蓮さんが正直に言ってくれることは、好きです。でも——怖いから離れる、というのは、私が受け入れられないかもしれない」

「……ごめんなさい」

「謝らないでいいです。ただ、正直に言ってくれたから、私も正直に言う。今の私を見て怖くなった人に、隣にいてほしいとは、言えない」

二人の間に沈黙が落ちた。

コーヒーショップの中に、ほかの客の声が流れていた。注文の声、笑い声、椅子を引く音。

蓮さんは怖い、と言った。私も怖い。でも、蓮さんの「怖い」と私の「怖い」は、今夜は同じ方向を向いていない。蓮さんの怖さは、私から離れようとする。私の怖さは、しがみつこうとする。それは今夜、交わらない。

「しばらく、連絡しないかもしれないです」と蓮が言った。

「うん」

「澪さんが落ち着いたら——また話せますか」

「分からない」

蓮が顔を上げた。

「分からない、というのは」

「落ち着いたときの私が、蓮さんに連絡したいと思うかどうか、今の私には分からない」

正直すぎる、と蓮はかつて言った。でも今夜、この正直さをやめることができなかった。

蓮が立ち上がった。

「……コーヒー、ありがとうございました」

「ありがとうございました」

蓮が店を出た。

澪は残ったコーヒーを見た。温度が下がっていた。


第四幕 報いの底


第13章 夏の空白

七月になった。

蓮からの連絡はなかった。澪からも、しなかった。

仕事は続けていた。修正作業は丁寧にやった。ミスをしなかった。確認を怠らなかった。新しいシニアデザイナーが決める方向性に、意見を出すときは根拠をきちんと準備した。プロとして、やるべきことをやった。

でも、それだけだった。

石川が「神崎さん、最近仕事の精度が上がってますね」と言った。

「ありがとうございます」

「次のプロジェクト、もう少ししたら巻き込みたいと思っているので、よろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします」

会話が終わった。澪はデスクに戻った。

仕事の精度が上がっている。それは本当のことだ。でも、精度が上がった私は、以前の私と何が違うのか。目的がなくなった。遊びのデザインを作りたいという気持ちが、凍結と同時に冷えていった。正確に作ることと、作りたいものを作ることは、別のことだ。今の私は、正確にやっている。でも、作りたいものが見えない。

デスクの観葉植物が枯れた。

ある朝、気づいたら、葉が全部茶色くなっていた。水をやり続けていたはずだった。でも、日光が足りなかったのかもしれない。土の状態が悪かったのかもしれない。

澪はポトスを、コンビニの袋に入れてゴミ箱に捨てた。

松田が「あれ、植物は?」と聞いた。

「枯れた」

「……そうですか」

それだけだった。


沙良とは、あの公園での会話から一度も会っていなかった。

メッセージのやり取りは、少しだけあった。沙良が「元気?」と送ってくる。澪が「元気」と返す。それだけだ。

本当のことではなかった。元気ではない。でも、沙良に今の状態を話せなかった。話す言葉を持っていなかった、というより、話すことで沙良に何かを渡せる気がしなかった。

八月の終わり、沙良から「久しぶりにご飯しない?」とメッセージが来た。

澪は三日間、返信しなかった。

四日目に「今は少し、難しい」と返した。

沙良から「そっか、無理しないでね」と来た。

それ以上の返信はしなかった。


第14章 設計者の失格

九月に入って、石川に呼ばれた。

今度は人事部長はいなかった。石川と澪の二人だった。

「神崎さん、少し聞きたいのですが」

「はい」

「最近の仕事ぶり、正確でよくできていると思います。でも——何かを失った気がしていて。言語化が難しいんだけど、仕事に……体温がない感じがします。精度は上がったけど、体温が下がった。そういう変化が、この夏にあった気がして」

体温が下がった。

澪はその言葉を、胸の中で繰り返した。

「神崎さんが去年、提案した『遊びのデザイン』のコンセプト。あれを出してきたときの神崎さんには、何かがあった。今はそれがない」

「プロジェクトが凍結されたので」

「凍結されたから失ったのか、先に失っていたから凍結されたのか、どちらだと思いますか」

澪は答えられなかった。

石川が続けた。

「私は、後者だと思っています。何かを——大切にしようとしていたものを、失ったか、手放したか、あるいは持てなくなったか。それがあの春以降、あなたの仕事から出てきていない。その何かが何なのかを、私には分からないし、聞くつもりもない。でも、あなた自身には分かるんじゃないかと思って、言いたかった」

「……ありがとうございます」

「ありがとうございます、と言う前に、考えてみてください」

「はい」

会議室を出た。廊下に立った。

石川の言葉は、的確だった。それが分かるから、余計にしんどかった。

体温が下がった。蓮さんと別れてから、三ヶ月。仕事の精度は上がった。感情の精度は、下がった。精度が高くて体温のない設計は、正しいが冷たい。それが今の私だ。私は今、自分の作る設計に、自分自身が持てていない。設計者として、それは——失格ではないか。


十月に入った。

父の再入院から四ヶ月が過ぎた。退院はしていたが、以前よりずっと弱くなっていた。母から「徹が月に一度、通院している」という連絡が続いていた。

「会いに来なくていい」と父が言っているという話も、母から聞いていた。

澪は長野に行かなかった。

仕事を理由にした。でも、本当の理由は違った。会いに行けば、何かを感じる。何かを感じることが、今の澪には怖かった。感じ始めると、崩れそうだった。崩れないために、感じないでいた。

感じないことを選んでいる。それが強さに見えるかもしれない。でも、これは強さではない。麻痺だ。感じることから逃げている麻痺を、強さと呼ぶことはできない。私がずっと批判してきた「遊びのない設計」を、私自身がやっている。感情に遊びを持たせられず、硬く固めて、動けなくなっている。

デスクに、新しい観葉植物を買ってこようかと何度か思った。でも、また枯らすかもしれない、と思うと買えなかった。


第15章 正樹の結婚

十一月の終わり、共通の知人からの連絡で、正樹が結婚したことを知った。

相手は、澪も知っている別の女性だった。正樹の仕事の関係者だったと聞いた。

澪はその話を聞いて、最初に感じたのは——何もない、だった。

悲しくない。羨ましくない。怒りもない。

何もなかった。

その何もなさが、夜になってから怖くなった。正樹と二年付き合って、婚約して、別れた。それだけの時間がある人間が、幸せになったという話を聞いて、何も感じない自分が、怖かった。

私は、どこへ行ったんだろう。感情の場所が、分からない。蓮さんのことを考えても、もう何も動かない。沙良のことを考えても、同じだ。お父さんの病気を思っても、怖さより麻痺が先に来る。感情という地面が、どこかに沈んでいった。

澪は久しぶりに、白いノートを開いた。

カスタマージャーニーマップを書こうとして、止まったあのノートだ。

今夜は、何かを書いた。

正樹と出会った日、婚約した日、別れた日。蓮と最初に目が合った雨の夜、定食屋の夜、縁側の夜。父の書斎の夜、長野の旅館の夜、再入院の病室。プロジェクトが凍結された日、蓮と最後に話した日。

線ではなく、点だけが並んだ。

点と点を結ぼうとしたが、線が引けなかった。それぞれの点は確かにあるのに、繋がり方が見えない。自分のジャーニーを、自分で追えない。

ノートを閉じた。

設計者が、自分のジャーニーを設計できない。それが今の私の姿だ。


第16章 松田の退職

十二月の第二週、松田が退職を申し出た。

次の会社が決まっていた。スタートアップで、プロダクト全体を任されるポジションだという。

「神崎さん、いろいろ教えてもらいました」と松田が言った。

「こちらこそ」

「神崎さんの指摘、最初はきつかったです。正直、辞めようと思ったこともあった」

澪は「そうだったの」と言った。

「でも、正確に物事を見るということを、神崎さんから学びました。それが今、次のステップへの自信になってるので。感謝しています」

澪はしばらく、松田の顔を見ていた。

「松田くんに、一つ謝らないといけないことがある」

「え?」

「私、あなたが一週間かけて作ったものを、三分見て『情報の優先度が逆だ』と言ったことがある。あのとき、私の言ったことは技術的には正しかったけど、言い方は間違っていた。一週間かけた仕事への敬意が、なかった」

松田が黙った。

「今になって言うのは、タイミングが遅すぎると思う。でも、ずっと引っかかってたから」

「……覚えてます」松田が言った。「あのとき、本当に傷ついた。でも——神崎さんが今それを言ってくれることで、変な感じだけど、あの傷がちゃんと形になった気がします。ありがとうございます」

「ありがとうは、こちらが言うことです」

松田の最終日、澪はチームの送別会に最後まで残った。以前の澪なら、途中で帰っていた。仕事を理由にして。

今夜は残った。それだけのことだが、それだけのことだった。

松田くんが去る。田中は来年、リードの役割を少し任されることになるらしい。新しいデザイナーが設計の核を担っている。私は今、このチームのどこにいるか。三年前には、ここが私の場所だと疑っていなかった。今は、輪郭が薄い。でも、それでも、まだここにいる。


第17章 冬の長野

年が明けた。

一月の連休に、澪は長野に帰った。

父が歩きにくくなっていた。リハビリをしているが、以前の歩幅には戻らないと医師から言われていると、母が話した。

夕食を三人で食べた。徹が食欲がなく、味噌汁だけを飲んでいた。

「仕事はどうだ」と徹が聞いた。

「続けています」

「そうか」

「お父さんは? リハビリ、どのくらい進んでる?」

「毎日少しずつ。焦っても仕方ないから」

「そうだね」

夕食が終わって、和子が台所で洗い物をした。澪は父と二人、居間に残った。

テレビが音を小さくして流れていた。寒さが窓から染みてくる。父がコタツに足を入れている。

しばらくして、徹が言った。

「澪、婚約はどうなった」

「別れた。去年の春に」

「そうか」

「うん」

「好きな人は、いるか」

澪は少し考えた。

「……いたけど、今はよく分からない」

徹が頷いた。

「よく分からないのは、まだ続いてるということだ」

澪は父を見た。コタツに足を入れて、テレビを見ている父の横顔を見た。

「お父さん、また話してくれてありがとう」

「何を」

「いつも言葉が少なかったから。去年、病院で話してくれたこと。今夜も」

徹は黙って、テレビを見ていた。

「言葉が少ないのは——怖かったから、というのもある」

「何が怖かったの」

「言えば伝わる。伝わったものが、期待になる。期待を裏切ると、傷つける。だから言わなかった」

澪はその言葉の形を、胸の中で確かめた。

言わないことが愛情になると思っていた父。言わないことで守ろうとした母。言えなかったことで重さを作った沙良。言うことで怖くなった蓮。そして、正しいことだけを言い続けて、体温を渡せなかった澪自身。

みんな、自分なりの怖さの中で、言葉を選んでいた。それが必ずしも正しくなかった。でも、怖さから来ていたことは、本物だった。

「分かった」と澪は言った。

「怖かったんだね」

父が小さく頷いた。


翌朝、駅まで和子が車で送ってくれた。

「また来るね」

「待ってるわ。お父さんも、言わないけど待ってると思う」

澪は頷いた。改札を入る前に、一度振り返った。

和子が手を振っていた。小さな手で、ゆっくりと。

澪も、小さく手を振った。

久しぶりに振り返った。振り返ることができた。手を振れた。それだけのことが、今日はできた。昨日できなかったことが、今日できた。そういう日が、少しずつ来るのかもしれない。

新幹線が動き出した。


第18章 蓮の舞台

二月に、偶然SNSで蓮の名前を見た。

照明デザインのクレジットとして、小さな劇団の公演情報の中に、「朔間蓮」という名前があった。下北沢の劇場で、二月の中旬から一週間の公演だという。

澪はその投稿を、しばらく見つめていた。

行こうか。

それとも、行かない方がいいか。

三日間考えた。

四日目に、チケットを一枚、オンラインで購入した。


公演は火曜日の夜だった。

劇場に入ると、客席はほぼ埋まっていた。百席ほどの空間が、静かな緊張を持っていた。

澪は後方の席に座った。

天井を見た。照明機材が吊られている。そのうちの一台が、わずかに角度を変えていた。仕込みの最終確認だろうか。動かしている人間の影が、天井に見えた。

公演が始まった。

最初の照明が落ちて、舞台に光が当たった。

その光の質を、澪は知っていた。

柔らかく広がる光。フレネルのレンズが作る、空気ごと照らすような光だ。役者の輪郭を切り取らずに、舞台全体の空気を作っている。光が舞台の温度になっていた。

蓮さんの光だ。

澪は声を出さなかった。でも胸の中で何かが動いた。三ヶ月ぶりに。

演目は七十分だった。役者が三人で、セリフが少なく、沈黙が長かった。でも沈黙の中に、照明が語っていた。人物が何かを感じたとき、光の色が変わった。時間が経過するとき、光の量が変わった。役者のセリフより先に、光が感情を出していた。

公演が終わった。

拍手の中で、澪は座ったままだった。

蓮さんは、ずっとここにいた。私が麻痺していた三ヶ月の間も、誰かの物語を照らし続けていた。それが蓮さんだ。怖くて距離を取ろうとしたけれど、舞台の上では、いつもこんなに正直に光を当てている。

客席が空いてきた。澪は立ち上がった。

出口に向かいながら、ふと舞台裏の方向を見た。

蓮が、機材のチェックをしながら、スタッフと話していた。

目が合った。

蓮が手を止めた。

澪は小さく頭を下げた。蓮も、同じように頭を下げた。

それだけだった。

澪は劇場を出た。

冬の夜の下北沢に立った。息が白くなった。

また、会えた。言葉は交わさなかった。でも、光を見た。蓮さんが今もここにいることを、確かめた。それで今夜は、十分だと思った。十分かどうかは、また別の夜に考える。


第19章 見えてきたもの

三月に、石川に提案書を出した。

「遊びのデザイン」ではない。もっと小さな提案だった。ver.2.0の修正対応の中で気づいたことを、一枚にまとめた。

「ユーザーが自分のペースで設定できる余白の設計について」というタイトルだった。

大きなコンセプトではない。ただ、アプリの中の一つの画面に、ユーザーが自分の言葉でメモを残せるスペースを設ける、という小さなアイデアだった。数字で分類した支出の記録の横に、その日の気持ちや文脈を書き残せる場所を作る。機能ではなく、余白を設計する。

石川が提案書を読んだ。

「神崎さん、これ、以前のコンセプトと関係してますか」

「関係してます。ただ、今回は大きなコンセプトではなく、一つの画面の一つの機能の話にした。地に足をつけた話にしたくて」

「……いいと思います。田中くんと一緒に進めてみてください」

「ありがとうございます」

「神崎さん」

「はい」

「体温が戻ってきましたね」

澪は少し笑った。

「そう見えますか」

「見えます」


田中と一緒に、小さな設計を始めた。

田中が「この余白、どんな文字が入ると思いますか」と聞いた。

「分からない。ユーザーに聞きましょう」

インタビューを設定した。被験者を五人集めた。「家計管理アプリを使いながら、何かメモを書いたいと思ったことはありますか」という問いから始めた。

一人目の被験者が言った。「先月、夫婦でケンカして外食したとき、そのお金をどっちに記録すればいいか分からなくて。数字だけじゃ説明できないことがあると思っていました」

二人目が言った。「子どもの誕生日の出費は、普通の支出と区別して記録したい。でも今のアプリには、そういう気持ちを書く場所がない」

三人目が言った。「数字を見ると不安になるとき、理由を書いておけたら、後で見返したときに怖くない気がします」

澪はインタビューを聞きながら、メモを取った。

数字だけでは説明できないことがある。気持ちを書く場所がない。理由があれば怖くない。これが、ユーザーが本当に欲しかったものだ。完璧な分類ではなく、自分の言葉を置ける場所。遊びのある設計とは、こういうことだったのかもしれない。大きなコンセプトを持つことではなく、こういう声を、ちゃんと聞くことだったのかもしれない。

田中が「神崎さん、インタビュー、面白かったですね」と言った。

「そうですね」

「私、UXの仕事って、データを見るものだと思っていたんですが、こういう話を聞く仕事でもあるんですね」

「そうです。データは後から理由を教えてくれるけど、声は先に感情を教えてくれる」

田中が「なるほど」と言って、手元のノートに書き込んだ。

澪はその姿を見ていた。

私がかつて田中くんに言ったことを、今日田中くんが言った。これが連鎖なのか、学習なのか、成長なのか。名前をつける必要はない。ただ、続いている、ということが分かった。


終章 遊びの形


第20章 春の始まり

三月の終わり、蓮からメッセージが届いた。

半年ぶりだった。

「先月の舞台に来てくれていたのを、見かけました。メッセージが遅くなりました」

澪は画面を見た。

「ちゃんと届きました」と返した。

しばらくして「届いていたんですね」と来た。

「届いていました」と澪は書いた。

また間があった。

「もし良ければ、また話せますか。急がなくてもいいんですが」

澪はしばらく、画面を見ていた。

蓮から来た、ということ。半年かけて、来た、ということ。それが、どういう意味を持つか。

今の澪には、答えが分からなかった。

でも、半年前は分からなかったことがいくつか、今は分かっていた。

自分の設計の過信が、何を壊したか。言葉と行動の間の乖離が、どこに現れるか。体温のない正確さが、何を失わせるか。感情に遊びを持てないことが、どれほど人を硬くするか。

そして——失われたものの多くは、取り戻せない、ということも。

「話せます」と澪は返した。


四月に入った。

蓮と神楽坂の定食屋に行った。いつもの八席のカウンター。大将が「久しぶり」と言った。二人に向けて言ったのか、蓮だけに言ったのか、曖昧だった。

焼き魚定食を頼んだ。

しばらく、黙って食べた。

「舞台、よかった」と澪が言った。

「来てくれているのが分かって、嬉しかったです」

「ちゃんと光が変わるのが分かった」

「それは、前に説明したからですか」

「それもあるけど、蓮さんが当てているんだと分かったから」

蓮が箸を置いた。

「澪さん、この半年で、何か変わりましたか」

澪は少し考えた。

「変わったことと、変わらなかったことが、両方ある」

「変わらなかったことは?」

「失ったものが、取り戻せないことは、変わらない。プロジェクトの失敗も、松田くんが去ったことも、沙良との間の何かも。お父さんの体が戻らないことも」

蓮は静かに聞いていた。

「変わったことは」

澪は箸を置いた。

「失ったことが、次に何かを作るときの材料になるかもしれない、と、少し思えるようになった。データの欠損を補完するみたいに、雑な補完はできないけど——空白のまま、次の設計に持っていくことはできるかもしれない」

「空白のまま」

「そうです。埋めなくていい空白がある、ということに、やっと気づいた気がする」

大将が「お茶いる?」と声をかけてきた。二人が「はい」と言った。声が重なった。

一年前と同じように。


食事の帰り、坂の途中で蓮が言った。

「澪さんと、また一緒に歩けているのが——怖くて、うれしいです」

澪は立ち止まった。

怖くて、うれしい。

「私もです」

「前と、また同じ関係になれるとは思っていない」

「私も、同じ関係には戻れないと思う」

「でも、新しい何かは——あるかもしれない」

澪は夜の神楽坂を見た。坂の下に光が並んでいた。それぞれの光が、それぞれの場所を照らしていた。

「蓮さん、一つ聞いていいですか」

「はい」

「この一年で、一番後悔していることは何ですか」

蓮がしばらく考えた。

「……あの夜、コーヒーショップで、怖いから離れると言ったこと」

「なぜ後悔してるの」

「怖いのは本当だった。でも、怖いから離れる、は自分の都合だった。澪さんが失っていくものを見て、自分が傷つくのが怖くて、先に逃げた。それは——優しさじゃなかった」

澪は頷いた。

「私も後悔してることがある」

「何を」

「仕事で確認を怠ったことを、最初からきちんと引き受けられなかったこと。自分のミスを認める前に、データのせい、タイミングのせい、と言い訳を一瞬探した。誰にも言わなかったけど、自分の中で一瞬探した。それが、一番しんどい」

「言ってくれて、ありがとうございます」

「蓮さんが正直に言ってくれたから、言えた」

二人は坂を下りていった。

話しながら、歩きながら。どちらが速くもなく、遅くもなく。

光が当たる場所を、二人で踏んでいった。


エピローグ 遊びの形

四月の初め、田中と一緒に設計した「余白の機能」が、テスト公開された。

機能の名前は「ひとこと」にした。支出の記録の横に、自由に言葉を残せる、小さな入力欄だ。カテゴリ分類も、金額分析も、関係ない。ただ、その日その瞬間に何かを書きたければ書ける場所。

ユーザーから最初の一週間で届いたフィードバックを、田中がまとめてくれた。

「子どもとアイスを食べた日、記録するだけじゃなくてメモが残せてよかった、というコメントがありました」

「ほかには」

「夫と初めて外食した記念日、数字だけだと切なかったので、ひとことが書けてよかった、というものも」

澪はそれを読んで、静かに笑った。

「数字だけでは説明できないことがある、という声が、ちゃんとここに来たね」

「はい。神崎さんが最初のインタビューで引っかかっていた部分が、そのまま来た気がします」

「ありがとう、田中くん。一緒に設計してくれて」

田中が「ありがとうございます」と言って、デスクに戻っていった。

澪はモニターを見た。

「ひとこと」の入力欄は、一見目立たない。機能として主張しない。でも、そこに何かを書いた人間の言葉が、記録の隣に並ぶ。数字と、言葉が。データと、感情が。

遊びのデザインとは、余白を作ることだと言った。余白とは、埋めるためにあるのではなく、あることで空気が通る場所だ。私は自分の中にも、長い間、余白を持てなかった。正解で埋め続けていた。でも今、少しだけ、空白のままにできている場所がある。蓮さんのことが、まだよく分からない。沙良との関係が、どこへ向かうかも分からない。お父さんの体がどうなるかも、知らない。自分がこの仕事でこれから何を作るかも、全部は見えない。でも——分からないことを、分からないまま持っていられる。それが今の私の、「遊びの形」だ。

デスクに、小さな観葉植物を置いた。

ポトスではない。ちがう種類の、小さな葉の植物だ。名前を店で聞いたが、覚えるより先に忘れた。覚えなくてもいい、と思った。

植物の葉が、窓からの光を受けていた。

午後の光が、部屋の中に静かに差し込んでいた。

照らした場所だけが見える。隠せない。

澪は画面に向き直って、キーボードに指を置いた。

次の設計を、始めた。



あとがきに代えて

私たちは皆、誰かに引かれた輪郭の中で育つ。 親が引いた線、社会が引いた線、自分が自分に引いた線。

その線が正しかったかどうかは、後からしか分からない。 でも線を疑い始めた瞬間から、私たちは自分の形を探し始める。

探す途中で、いくつかのものを失う。 取り戻せないものも、ある。

それでも—— 遊びのある設計は、壊れにくい。 余白があるから、空気が通る。 空気が通るから、長く動き続けられる。

澪はまだ、自分の形を探している。 蓮も、まだ探している。

探しながら、隣を歩いている。 それが、今の二人の「遊びのかたち」だ。