遊びのかたち


第一幕 完璧な日々の亀裂


第1章 五杯目のコーヒー

渋谷の高層ビル、二十三階。午後十一時を過ぎていた。

澪のデスクだけに光があった。オープンフロアのほかの席はとっくに暗くなっていて、消えた画面がいくつも並んでいた。その中で澪の三十インチモニターだけが青白く光り、Figmaのデザインデータを映していた。

画面の左半分にはプロトタイプ。右半分にはコメントスレッド。松田から今日の午後に入った指摘が赤い吹き出しで十七個浮かんでいた。澪はそれを一つずつ開き、確認し、対応済みにしていく。機械的な作業ではない。一つひとつに判断が必要で、その判断には根拠が要る。根拠を言語化する。言語化したものをまたデザインに落とす。その繰り返しだ。

コーヒーカップが五つ、デスクの端に重ねて置かれていた。

澪がShiro Inc.に転職して三年になる。多摩美の情報デザイン学科を出て、最初の会社でグラフィックデザインを二年やってから、「ユーザー体験を設計する」という言葉に引き寄せられてUXデザイナーになった。今は家計管理アプリ「シロ」のデザインチームを六人で回している。月間ユーザーは二百万人を超えた。

今夜作業しているのは、来週のユーザーテストに向けたプロトタイプの最終調整だ。新しいカテゴリ分類機能。ユーザーが支出を記録する際の導線を、現行の七ステップから四ステップに圧縮する設計で、先月から澪のチームが取り組んできた。

画面を見ていた。正確には、画面を通り抜けて、その向こうにある何かを見ていた。それが何なのか、今夜の澪には分からなかった。

正しい答えを出し続けていれば、いつか何かが満たされると思っていた。でも満たされるより先に、次の問いが来る。それがUXの仕事だと、始めた頃に気づいた。気づいてから五年、やめなかった。それは好きだったからだ。好きなはずだ。

デスクの隅に、小さな観葉植物があった。ポトスだ。入社した年に、チームの先輩が「デスクに緑があると目が休まる」と言ってくれたものを、そのままにしていた。葉の先が少し茶色くなっていた。澪は気づいていなかった。

後輩の田中が近づいてきた。入社一年目の二十三歳で、今夜は残業していた。手に紙のレポートを持っていた。

「神崎さん、すみません、ちょっといいですか」

澪はモニターから目を離さずに「どうぞ」と言った。

「ユーザーインタビューのアフィニティマッピングなんですけど、やり直した方がいいかもしれなくて。グルーピングが、ちょっと恣意的な気がしてきて」

澪は手を止めて、田中を見た。アフィニティマッピングとは、インタビューで集めた発言や観察メモを付箋に書き出し、意味の近いものをグループにまとめて構造化する作業だ。定性データを扱うUXリサーチの基本工程で、どこまでいっても「正解」がない。だからこそ、やり直したいと自分で気づいたのは正しい感覚だった。

「どのあたりが気になってる?」

「『操作がわからない』と『時間がかかる』を同じグループにまとめたんですけど、よく考えたら原因が違うなって。前者はUI設計の話で、後者はユーザーのメンタルモデルの話な気がして」

澪は三秒考えた。

「それ、正しいと思う。『操作の複雑性』と『認知負荷』で別クラスターに分けてみて。明日の朝までに送ってもらえる?」

「分かりました。本当にすみません、こんな時間に確認しに来て」

「気にしないで。むしろちゃんと引っかかってくれてよかった。そういうの、見過ごす人の方が多いから」

田中が「ありがとうございます」と言って、自席に戻っていった。その背中が少し軽くなった気がした。澪はまた画面に向き直った。

田中がエレベーターに消えたのは、それから四十分後だった。帰り際に「お疲れ様でした」と言っていった。澪は「おつかれ、気をつけて」と返した。

一人になった。

ビルの外は雨だった。窓に滴が伝っている。澪は立ち上がって、窓に近づいた。二十三階から見る渋谷の夜景が、雨で滲んでいた。光がにじんで、それぞれのかたちを失っていた。

田中の「こんな時間に」という言葉が、まだ耳に残っていた。午前零時が近い。田中は謝っていたが、謝るべきなのは澪の方だ、と思った。チームのスケジュール設計が悪ければ、深夜に一年目が一人で残業することになる。設計の問題は、ユーザーだけに起きるわけではない。

正しい答えを出し続けていれば、いつか何かが満たされると思っていた。でも満たされるより先に、次の問いが来る。今夜も、そうだった。

午前零時を過ぎた。帰ろう、とパソコンをスリープにしながら思った。

タクシーを呼んだ。コートを着て、バッグを肩にかけて、デスクのモニターを消した。ポトスの葉の先が茶色くなっているのに、澪は気づかないままエレベーターに乗った。


タクシーの後部座席に沈んだ。

雨が強くなっていた。ワイパーが忙しく動いている。澪はイヤフォンを耳に差した。音楽は流していない。外界をシャットアウトするための道具として、ただ耳に差していた。

スマートフォンが光った。正樹からのLINEだ。

「今日も遅い? 夕飯、残してあるよ」

澪は既読にした。返信しなかった。画面が暗くなる。

村瀬正樹、三十歳。中堅の広告代理店に勤めている。二年前から付き合っていて、半年前に婚約した。穏やかで、誠実で、澪が疲れた夜に何も言わずに温かいものを用意してくれる。

正樹は優しい。それは本当のことだ。でも今夜その優しさを受け取る気になれないのは、疲れているからなのか、それとも別の何かのせいなのか、タクシーの中で考えてみても、よく分からなかった。

タクシーの窓に、澪の顔が映っていた。雨粒越しに、自分の顔を見た。ぼんやりとしたかたち。滲んだ目。

よく知らない人の顔のようだ、と思った。

澪は視線を落とした。手を見る。膝の上で、静かに置かれていた。

手が、震えていない。今夜は震えていない。


第2章 事故の夜

神楽坂だった。

タクシーが停まった。「前で事故があったみたいで」とドライバーが言う。フロントガラスの向こうに、赤と青の光が回っていた。パトカーと救急車が止まっていて、野次馬が雨の中で傘を差して立っていた。

「迂回しましょうか」

「いいです」と澪は言って、ドアを開けた。

ドライバーが驚いた顔をしたが、澪はもう料金を払って外に出ていた。

雨の中に立った。傘を持っていないことに気づいたが、戻る気にならなかった。

事故車は一台だけだった。街路樹に正面から突っ込んでいる。フロントが歪んで、エアバッグが展開していた。運転席の窓越しに、六十代くらいの男性がぐったりとしているのが見えた。意識がないようだった。

周囲の人たちは距離を保って見ていた。何をすればいいか分からない、という顔をしていた。澪も同じだった。

その中で、一人だけ、車のドアを開けて中に手を入れている人物がいた。

三十代前半に見えた。雨でコートが濡れている。傘もなかった。その人は男性の首筋に二本の指を当てて、数秒間静止した。それから顔を上げて、周囲を見渡して、静かな声で言った。

「毛布か上着を持っている方、貸してもらえますか。体温を保ちたいので」

誰かがジャケットを差し出した。彼はそれを受け取って、男性の体にかける。首は動かさない。背骨への影響を避けているのが分かった。

救急車が前進してきた。隊員が降りてくる。彼は一歩引いて、隊員に「意識なし、呼吸あり、脈は弱め」と短く報告した。引き継ぎだ。自分の役割が終わったと判断して、静かに場所を空けた。

澪はその一連の動きを、雨の中で見ていた。

彼が振り返った。野次馬の輪の外れで、傘もなく立っている澪と、目が合った。一秒、二秒。

「あなた、震えてますよ」

澪は自分の手を見た。

確かに、震えていた。コートの袖から出た手が、細かく揺れている。寒さのせいだけではない気がした。

震えていた。いつから、かは分からない。


救急隊員が男性を処置し始めると、野次馬は少しずつ散り始めた。雨が強い。傘を持っている人は足早に去っていく。

彼は車のそばにしゃがんで、隊員の動きを見ていた。自分の出番が完全に終わったことを確かめるように。それから立ち上がって、自分の手を見た。手袋をしていなかった。掌に、男性の血が少しついていた。

澪は反射的にバッグを探った。ウェットティッシュ、ある。取り出して、差し出す。

彼は一拍、澪を見てから、「ありがとう」と言って受け取った。丁寧に手を拭く。

「お知り合いだったんですか、あの方」

「いいえ」と彼は言って、ウェットティッシュをたたんだ。「ただ、誰も近づかなかったので」

澪はその答えを、しばらく聞いていた気がした。

彼は雨の中を歩き始めた。傘はない。コートが濡れて、重そうだ。街灯の下を通り過ぎて、暗がりに入っていく。

澪はその背中を見送った。名前も知らない。連絡先も知らない。

でもなぜか、今夜初めて、誰かの体温を感じた気がした。自分の震えに、名前をつけてもらったような気がした。

救急車がサイレンを鳴らして走り去った。残された街路樹が、雨の中で濡れていた。

澪は濡れたまま、しばらくそこに立っていた。


第3章 正解の部屋

翌朝、正樹のマンションのテーブルに、朝食が並んでいた。

トースト、スクランブルエッグ、コーヒー。スクランブルエッグはとろとろで、正樹の得意料理だ。コーヒーは澪が好みの浅煎りで、マグカップに注いで湯気を立てていた。

「昨日、帰り遅かったね」と正樹が言った。責めていない。ただ聞いている。

「神楽坂で事故があったみたいで、少し足止めされた」

「大丈夫だった? 怖かったんじゃない」

「私は何もできなくて、ただ見てただけだったんだけど」

正樹は少し間を置いた。

「それでよかったんじゃない。素人が下手に手を出す方が危ないし、救急隊員に任せるのが正解だよ」

正しい言葉だ。

でも澪には届かなかった。

正樹の言葉はいつも正しい。正しい言葉は、正しい場所に着地する。でも私が欲しかったのは、正しさではなかったような気が、した。何だったのかは分からない。分からないまま、卵を口に運ぶ。

「そういえば式場のことなんだけど」と正樹が言った。「そろそろ決めたいんだよね。候補が三つあって」

パンフレットをテーブルに出した。横浜のガーデンウェディング、都内の歴史ある神社、渋谷のモダンなレストランウェディング。どれも写真が美しかった。どれも正解に見えた。

「どこでもいいよ、正樹が好きなとこで」

「どこでもって言うけど、せっかくだから澪も選んでほしくて。澪の式でもあるんだから」

「正樹が選んだ方が、たぶんうまくいくと思う」

正樹が少しだけ顔を曇らせた。

「……俺、澪に選んでほしいんだけど」

澪はパンフレットを閉じた。「ごめん、今日も早めに出ないといけなくて」と立ち上がる。

正樹は何も言わなかった。澪は自分が何か大事なことをすり抜けた感じがするのに、止まれない。靴を履いて、ドアを開ける。

「行ってきます」

「うん」と正樹は言った。「気をつけて」


昼の移動中に、沙良から電話がかかってきた。

多摩美の同級生で、今はフリーのスタイリストをしている橘沙良だ。SNSのフォロワーが八万人いて、いつも何かのポップアップイベントに顔を出している。澪が唯一、本音に近いものを話せる相手だった。

「ねえ澪、最近顔見てないけど生きてる?」

「生きてるよ」

「声が死んでる」

澪は笑った。沙良の前では、本物の笑いが出る。

「結婚式の話、正樹としてさ。式場選んでって言われてるんだけど、なんか選べなくて」

「なんで? どれも気に入らない感じ?」

「そういうわけじゃないんだけど、どれが正解かが分からなくて、なんか踏み切れないんだよね」

電話の向こうで、沙良が一瞬だけ黙った。

「基準……そっか。澪ってそういうとこあるよね。正解じゃないものを選ぶのが、怖いんだよね」

「そういうわけじゃないって」

「そう?」

澪は答えなかった。タクシーが信号で停まる。窓の外に、雨上がりの渋谷が見えた。

「まあいいや、また話す」

「はーい。ご飯行こうよ、近いうちに」

「うん」

電話を切った。画面が暗くなる。

正解じゃないものを選ぶのが怖い。沙良は正しい。正しいけど、それを指摘されると、少し息が苦しくなる。なぜ息が苦しくなるのかは、分からない。


第4章 照明の仕事

一週間後の金曜日、クライアントの接待で小劇場に行くことになった。

取引先の担当者、四十代の男性が「小さな舞台が好きで、たまに観に行くんです」と言ったのを、上司が拾った。「じゃあぜひ」という流れで、神楽坂の劇場のチケットが四枚手配された。澪は演劇に特別な興味はなかったが、仕事なので完璧な笑顔で来ていた。

客席に座って、開演を待つ間、澪はふと舞台の天井を見上げた。

照明機材が無数に吊られている。フレネルスポット、エリプソイダル、LEDのパー缶。それぞれ微妙に角度が違う。その一つを、暗がりの中で誰かが調整していた。脚立に登って、レンズの前に手をかざして、光の広がりを確かめていた。

一瞬だけ、作業灯の光がその人物の顔に当たった。

澪は目を細めた。

見たことのある顔だった。


休憩時間に一人でロビーに出ると、その人物がいた。

クリップボードを持って、チェックリストを確認していた。コートではなく、薄手のフリースを着ている。仕事着だ。

澪が近づいて、声をかけた。

「あの、先週の夜に神楽坂で——事故があった夜に、いらっしゃいましたよね」

相手が顔を上げた。一秒、何かを思い出すような間があった。

「ウェットティッシュの人」

「そうです」

彼は小さく頷いた。「あの方、助かったみたいです。救急隊員の人が翌日教えてくれました」と言った。

「それは良かった。ずっと気になってたので」

澪は本当にそう思っていた。

「今日は仕事でいらしてるんですか」

「はい、接待で。あまり演劇は詳しくなくて」

「じゃあ今夜、少し分かるかもしれないです」彼はチェックリストに視線を戻しながら言った。「いい演目なので」

正樹だったら、もう少し何か付け加えるはずだった。「きっと楽しめますよ」とか、「この劇団は評判がいいので」とか。でも彼はそこで止めた。澪に向けて言ったのか、独り言なのかも分からないくらい、さらりと。

「照明のお仕事をされてるんですか」

「はい」

「さっき上で、機材を調整されてましたよね。客席から見てて、角度を変えるたびに光の形が変わるのが面白くて」

彼が少し驚いた顔をした。

「見てたんですか」

「機材の名前とかは全然分からないんですけど」

「あれはフレネルというレンズで、光を柔らかく広げるのに使います。人物を鋭く切り取るエリプソイダルとは逆で、舞台全体の空気を作るときに使うことが多いです」

説明が簡潔で、正確だった。必要なことだけ言って止まった。澪はUXの仕事で、機能の説明を分かりやすくすることに長年苦労してきた。この人の説明の仕方には、余分がない。

「朔間と言います」と彼が言った。

「神崎です。神崎澪」


公演が終わって、接待の相手を先に帰した後、ロビーで一人でコートを着ていると、機材ケースを持った朔間が通りかかった。

「どうでしたか」

澪は少し考えてから言った。

「あの役者の方、本当に泣いてたんですか。作ってる感じがなくて」

「そうです。毎晩あのシーンで泣きます」

「毎晩……どうしてそれができるんでしょうね」

朔間は立ち止まって、澪を見た。

「泣く練習をしてきたからじゃないですかね。私たちと逆で」

私たち、と言った。

澪は「私たち」という言葉のくくられ方が、少し気になった。

「私たち、というのは」

「泣けない側、ということです」

朔間は静かにそう言って、「失礼します」と機材ケースを持って舞台裏へ向かっていった。

澪はその背中を見ていた。


劇場を出る前に、朔間がもう一度通りかかった。仕込みが終わったようだった。

「オフィスか自宅かは分からないんですけど、観葉植物があったら水をやった方がいいかもしれないです。この時期、乾燥しやすいので」

澪は思わず「なんで分かるんですか」と聞いた。

「爪の甘皮が乾いている人は、たいてい自分のことも周りのことも後回しにしてる気がして」

言い終わる前に朔間は歩き出していて、澪が何か返す間もなく、夜の神楽坂に出ていった。

澪はしばらく劇場のロビーに立っていた。

後回し。私はずっと、何を前にしてきたんだろう。プレゼンを。進捗を。正解を。でも自分の爪の甘皮は、後回しにしていた。それが今夜、見知らぬ照明家に見えていた。

澪は自分の左手を見た。確かに、甘皮が乾いていた。


第5章 父からの電話

翌々週の月曜日、新機能のプロトタイプが完成した。

Shiro Inc.の会議室に、プロダクトマネージャーの石川、エンジニアリードの松田、マーケティングの三人が集まった。澪はFigmaで作ったプロトタイプをプロジェクターに映して、ウォークスルーを行う。

「まずユーザーが支出を記録するフローです」と澪は切り出した。「現行は入力からカテゴリ選択、金額、メモ、確認と七ステップかかっています。新設計では、金額を打ち込んだ時点で過去のパターンからカテゴリを予測して三択で提示します。精度は先月のデータから約七十三パーセントを見込んでいます」

「外れた場合は?」と石川が聞いた。

「先週のユーザーインタビューで確認しました」澪はリサーチデータを切り替えた。「予測が外れても手動選択への切り替えが一タップで完結するので、離脱率は現行より下がる見込みです。ただ、予測精度が六十パーセントを下回ると逆効果になるシナリオも確認できていて、そのしきい値を下回った場合は自動で従来の入力画面に戻す設計を入れています」

「自動で戻る、というのはユーザーに分かるようになってますか」

「バナーで一言出します。『今日は手入力の方が速そうです』という表現で、予測に失敗した感を出さないようにしています。ユーザーに精度の低い状態を押しつけないための判断です」

石川が頷いた。松田が細かい実装の確認をいくつかした。澪はすべて答えた。

会議が終わって、石川が「いい設計だね」と言って部屋を出ていった。

澪は一人でプロジェクターを消した。

いい設計。そう言われると、達成感があるはずだ。あるはずなのに、今日は薄い。正確には達成感ではなくて、空白に近いものがある。次のタスクに移るまでの、一瞬の空白。それがここ最近、少し長くなっている気がする。


その夜、オフィスに父から電話がかかってきた。

年に三回あるかないかだ。神崎徹、五十五歳。長野で建設会社を経営している。無口で、感情を表に出さない。澪の記憶の中で、父が泣いたことは一度もない。

「澪か」

「お父さん。どうしたの、珍しい」

「体のことで、少し調べてもらうことになった。大したことじゃない。心配しなくていい」

澪は手元のボールペンを止めた。

「何が見つかったの」

「大したことじゃないと言った」

電話が切れた。

澪は画面を見つめた。「大したことじゃない」は、父がいつも使う言葉だ。転んで骨を折っても、会社の資金繰りが厳しくなっても、「大したことじゃない」と言う。だからこそ、この電話が怖かった。「大したことじゃない」と言うために、わざわざ電話してきた。

父は弱さを認めない。私が弱さを認めないのは、きっとそこから来ている。でも父が倒れたら——私は、誰になればいいんだろう。父の完璧さを真似て生きてきた私は、父の完璧さが揺らいだとき、何を真似て立てばいい。


深夜、澪のアパートに戻った。

正樹のマンションではなく、自分の部屋だ。婚約してからも、澪は自分のアパートを引き払っていない。「何かあったときのために」と説明したが、正樹は少し寂しそうな顔をした。何かあったとき、が何を指すのか、澪自身にも分からなかった。

正樹にメッセージを打ちかけた。「お父さんのこと、少し心配で」。

消した。

沙良に電話をかけようとした。

止まった。

画面をしばらく見て、澪は何もせずにスマートフォンを伏せた。

ベッドに仰向けになって、天井を見る。

誰かに言えたら、楽になれるのかもしれない。でも言い方が分からない。どこから話せばいいかも分からない。「心配」という言葉は知っているが、自分の中にある感触が「心配」という言葉と一致しているかどうか、確かめる方法がない。

UXの仕事で言うなら、私は今、自分自身のユーザーインタビューができていない。何を感じているか聞けていない。自分がどんな形をした人間なのかも、実はよく分かっていない気がする。設計者が迷っているから、導線が引けない。

天井が、ゆっくりと暗くなっていく。目を閉じる。

朔間が言った言葉が、暗闇の中に浮かんだ。

泣く練習をしてきたから、じゃないですかね。私たちと逆で。

私たち。

澪は、その言葉をもう一度だけ繰り返して、眠りに落ちた。


第二幕 遊びを知らない


第6章 ユーザーの声

ユーザーインタビューの日だった。

Shiro Inc.の会議室の一室が、インタビュールームとして使われていた。椅子が二脚向かい合って置かれて、テーブルの隅に小さなマイクがある。被験者はそこに座って、インタビュアーの質問に答えながらアプリを操作する。

澪はマジックミラー越しに、隣のモニタールームから観察していた。ノートを膝に置いて、ペンを持っている。

今日の被験者は三十四歳の女性で、家計管理に課題を感じているというスクリーニングで選んだ。画面の向こうで、新しいカテゴリ分類機能のプロトタイプを操作している。

支出入力の画面で、指が止まった。三秒。また止まる。

澪はメモした。カテゴリ予測、三択提示後に3秒以上の停滞。予測ラベルの文言が認知に引っかかっている可能性。「食費」より「食べること」の方が想起しやすいかもしれない。

インタビュアーが「今、何を考えていましたか」と聞いた。被験者は少し考えてから言う。

「なんか……ここで、自分が何をしたかったのか、分からなくなっちゃって」

澪の手が止まった。

自分が何をしたかったのか、分からなくなる。

それはアプリの設計の問題だけではなかった。

澪はもう一度メモに書いた。ペンが紙に押しつけられて、少し強い線になった。


インタビューが終わって、チームでデブリーフィングをした。

デブリーフィングとは、観察した内容を全員で共有して、気づきを出し合い、次の設計に繋げる工程だ。澪、松田、もう一人のデザイナーの三人が付箋を壁に貼りながら話し合う。

「被験者が三秒止まった箇所、私も気になりました」と松田が言った。「カテゴリのラベル、もう少し口語に近づけた方がいいかもしれないですね」

「そう。あと予測が出るタイミングも見直したい。入力と同時に出すと情報過多になっている気がする。入力が止まった瞬間に出す方が、ユーザーの思考フローに合うかも」

「トリガーのタイミングを変えるのは、実装コスト高くないですか」と松田が確認する。

「松田くん、どのくらいかかる?」

「一日あれば。でも既存のオートコンプリートの処理と競合する可能性があって、そっちの調整も含めると二日欲しいです」

「じゃあ次のスプリントに入れよう。優先度高で」

デブリーフィングが終わると、松田が新しい画面設計を持ってきた。先週から頼んでいたサマリー画面の改修案だ。

澪は受け取って、三分かけて見た。機能的には完璧だ。必要な情報はすべてある。動線も論理的に正しい。

でも何かが、引っかかる。

「松田くん、このグラフのラベル、数字が先に来てるんだけど」

「はい。金額の方が重要かと思って」

「ユーザーが見たいのは金額より、先月と今月の比較だと思う。差分を先に出して、その根拠として金額を置いた方がいい。情報の優先度が逆になってる」

松田が少し傷ついた顔をした。

「これ、一週間かけて作ったんですけど」

澪は顔を上げた。

「一週間かかってるの知ってるよ。だから言ってる。ちゃんといいものにしたいから」

松田は「分かりました」と言って、デスクに戻った。その背中を見て、澪は一瞬だけ、田中の背中を思い出した。

私はずっとこうだ。正しいことを言う。でも相手に届く言い方を、設計できていない。ユーザー体験は設計できるのに。人との間の体験は、設計できない。なぜできないのかは、分かっている。設計のためには、まず相手の感情を想像することが必要で、私は相手の感情より先に、問題の構造が見えてしまうから。それは強さでもあるが、何かを逃し続けている気もする。


退社後の道で、偶然また神楽坂を通った。

いつもより早く会議が終わって、久しぶりに歩いて帰ろうとした。神楽坂の坂を下りていくと、小劇場の前で機材の搬入をしている人影があった。

朔間だった。

アルミのケースを両手に持って、劇場の入口に向かっていく。澪が近づくと、向こうが先に気づいた。目が合う。朔間は軽く頭を下げた。澪も会釈した。

通り過ぎようとした。

「今日、早いんですね」と朔間が言った。

「たまには」

「夕飯、食べましたか」

澪は少し驚いた。

「……まだです」

「近くに、悪くない定食屋があります。よければ」

誘うでも、勧めるでもない。ただ、情報を提示している。澪は五秒考えて、「じゃあ」と言った。

自分でも、なぜ即座に断らなかったのか、分からなかった。


第7章 定食屋の夜

カウンター八席だけの小さな店だった。

引き戸を開けると、出汁の香りがした。六十代の大将が一人で切り盛りしていて、朔間の顔を見て「あ、朔間くん」と言った。常連だと分かった。

朔間はカウンターの端の席に座った。澪はその隣に座る。メニューは黒板に手書きで書かれていた。焼き魚定食、肉じゃが定食、豚汁単品。シンプルだ。

「焼き魚定食をください」と澪は言った。

「いつもので」と朔間は言った。

大将がお茶を出しながら、「彼女さん?」と聞いた。朔間が「違います」と言った。澪も「違います」と言った。二人の声が重なった。

少し間があって、澪は笑った。

笑った。今日初めて、作っていない笑いをした。


「照明の仕事は、どうやって始めたんですか」

焼き魚を待つ間、澪が聞いた。朔間は少し考えてから言う。

「大学のとき、たまたま手伝いに行って。映像の勉強をしていたんですが、舞台の照明の方が面白いと思って」

「どういうところが?」

「映像は後で編集できますが、舞台は取り返しがつかない。その場限りで決まる。それが性に合っていたのかもしれないです」

「でも映像の方が自由度が高くないですか。後で直せるなら」

「直せるということは、完成が先延ばしにできるということでもあって」朔間は少し考えながら言った。「舞台は、幕が上がった瞬間に始まって、終わった瞬間に完成する。その潔さが、好きです」

澪は箸を止めた。

「照明は、役者を照らすわけですよね。でも役者の方が目立つ」

「そうです」

「それは、気にならないですか」

「役者は自分で動けますが、光は動かされた場所でしか輝けない。でも、だからこそ正直だと思って」

「正直って、どういう意味ですか」

「当てた場所が、全部見える。隠せない」

澪はしばらく、大将が焼いている魚の音を聞いていた。

隠せない光。私はずっと、見せたいものだけを照らして、残りを暗くしてきた。完璧な仕事ぶりを照らして、感情の揺れを暗くしてきた。強さを照らして、怖さを暗くしてきた。それは、光の使い方として正しかったんだろうか。

焼き魚定食が来た。


食事を終えて、店を出た。夜風が少し冷たい。

「ごちそうさまでした」と澪が言った。「いえ」と朔間が言った。

澪が歩き出そうとして、振り返った。

「あの……朔間さん、って呼ぶと少し遠い気がして。蓮さん、って呼んでいいですか」

朔間が少し驚いた顔をした。初めて見る表情だった。眉が微かに上がって、目が一瞬だけ大きくなる。

「どうぞ。じゃあ、澪さん」

名前を呼ばれた瞬間、澪の胸の中で何かが動いた。

感情の名前が、まだない。でも確かに動いた。

「また」と澪は言った。

「また」と蓮は言った。

二人は反対方向に歩き始めた。澪は振り返らなかった。でも、背中で蓮がいつ見えなくなるかを、なぜか感じ取ろうとしていた。


第8章 設計できないもの

月曜日の朝から、プロダクト会議があった。

Shiro Inc.の月例プロダクトレビューは、デザイン、エンジニアリング、マーケティング、経営が全員集まる場だ。今回の議題は新機能のローンチ判断。澪のチームが設計したカテゴリ分類機能を、来月リリースするかどうかを決める。

「正直、もう二週間ほしいです」松田が言った。「現在の実装で、古いiOSバージョンでのパフォーマンスが想定より落ちていて、そのユーザー層が全体の十二パーセントいます」

「十二パーセントを切り捨てるのは難しいですね」と澪は言った。

「でも競合のMoneyForwardが似た機能を先月から出している。遅らせると差別化のタイミングを逃す」マーケティングの三上が言った。

「スペックを一段落として、フォールバックUIで古いバージョンも動かすのはどうですか」と澪は提案した。「理想の体験は提供できないけれど、壊れた体験よりはいい」

「フォールバックの工数は?」と松田。

「追加で三日、かな。どう?」

「やれます」

全員が澪を見た。

「ユーザーが混乱する設計のまま出すくらいなら、遅らせた方がいい。でも、完璧を待ち続けたら、永遠に出せない。今の完成度で、誰が一番困るかを考えましょう。フォールバック込みで三週間後。それで行きましょう」

会議室が静まった。石川が頷く。決定だ。

会議後、廊下で松田が「神崎さんってブレないですよね」と言った。

「そう?」

「どんな状況でも、基準がはっきりしてる」

澪は「そうかな」と言って、自分のデスクに戻った。

ブレない。それが強さに見えるなら、私は一生、それを続けなければならない。疲れた、と思ったのは、初めてかもしれなかった。強さを演じることに疲れた、ではなくて。遊びのない歯車のように、噛み合わせすぎて、どこにも動けなくなっている気がして、疲れた。


その夜、蓮からLINEが届いた。

定食屋で連絡先を交換していた。

「来週末、別の劇場で仕込みがあります。よかったら見に来ますか。客席から照明がどう変わるか、分かりやすい演目なので」

澪は三分考えた。来週末は特に予定がない。正樹とは先週末に会っていた。

「行きます」

送信してから、なぜ三分も考えたのに、こんなに澱みなく打てたのか、澪はしばらくスマートフォンを見つめた。

蓮さんの誘いには、正解を求められている感じがない。どう感じるか、何が好きか、そういうことを試されていない。ただ、来るかどうかだけを聞いている。返事に遊びがある。その隙間が、息を吸いやすくする。


三日後の夜、澪の母・和子から電話がかかってきた。

和子は長野に住んでいる。週に一度くらいLINEをするが、電話は珍しい。

「澪、お父さんのこと」

「うん」

「検査の結果が出て。心臓の血管に問題が見つかって、手術が必要になったの」

澪は椅子の背もたれに体を預けた。

「どのくらい大変な手術なの」

「先生には成功率が高いって言ってもらってて、入院は三週間くらいになるって。ただ、一度帰ってきてほしくて。お父さんは澪には心配かけたくないって言ってるけど」

「分かった。今週末に帰る」

落ち着いた声で言えた。電話を切った。

お父さんの心臓。あの無口な、感情を表に出さない人の、心臓。一度も弱さを見せたことのない人が、体の中で弱っている。それは私が立っていた地面が、少し傾いた、ということだ。傾いた地面の上で、私は今まで通りに立てるだろうか。

蓮に「週末、長野に帰ることになりました。また別の機会に」とメッセージを送った。しばらくして「分かりました。お父さんのこと、気をつけて」と返ってきた。

それだけだった。それだけなのに、少し息がしやすくなった。スマートフォンを伏せた。


第9章 長野、父の書斎

金曜日の夕方の新幹線で長野に向かった。

車内は空いていた。窓側の席に座って、景色を見る。都市の密度が、だんだん薄くなっていく。建物の間隔が広くなって、田んぼが見え始めて、山が近づいてくる。

東京を出るとき薄曇りだった空が、長野に近づくにつれて晴れてきた。夕暮れの光が山の斜面をなぞっていた。

長野駅のホームに降りると、空気が違った。東京より広くて、冷たくて、静かだ。自分の足音がよく聞こえる。

母が軽自動車で迎えに来ていた。

「お疲れ様。遠かったでしょ」

「二時間かからないから、大丈夫」

車の中で、和子は父の病状を淡々と説明した。狭心症で、左冠動脈の一箇所が細くなっている。手術はバイパス手術になる予定だ。

「お父さん、澪が来ることは知ってるけど、顔を見たら普通に振る舞うと思う。それがあの人だから」

「知ってる」

窓の外に、雪が少し残っていた。日陰の斜面に、白い塊がまだしがみついていた。春が来ているのに、解けないでいる雪。


実家は、市街地から少し外れた場所にある。父が三十年前に建てた家だ。玄関を開けると、古い家の匂いがした。木の匂い、畳の匂い、どこかに灯油の匂いが混ざっていた。

父は書斎にいた。手術前の自宅療養中で、書斎に座って書類を見ていた。

澪が入ると、徹は顔を上げた。

「来たか」

「来た」

二人とも、余分なことを言わない。澪は椅子を引いて座った。

徹が書類に目を戻しながら言う。

「仕事は問題ないか」

「ない」

「婚約者は」

「問題ない」

問題ない、問題ない。二人の会話は、常にこの確認だけで成り立ってきた。問題があるかどうかの確認だけで、お互いの中身には触れない。触れ方を知らない。

澪はふと、蓮が言った言葉を思い出した。

当てた場所が、全部見える。隠せない。

この部屋の光は、何を照らしていないんだろう。そして——お父さんが引いた線の内側だけを塗ってきた私は、自分の形を、本当に知っているのだろうか。

「夕飯は母さんが作ってるから」と徹が言った。

「うん」と澪は言って、部屋を出た。


夜中に目が覚めた。

時計を見ると、午前二時を過ぎていた。喉が渇いていた。廊下に出ると、書斎の電気がついていた。父は寝たはずだった。消し忘れだ。

消しに行った。

引き戸を開けると、デスクの上に書類が広げられたままだった。父は整頓する人間で、書類が出しっぱなしというのは珍しい。電気だけ消して戻ろうとして、澪はふとデスクに近づいた。

翌朝のために、乱れた書類を揃えておこうと思った。それだけだった。

束をまとめようとして、一番上の書類に目が止まった。

銀行の振込明細書だった。何枚も重なっている。一番上の一枚を、見るともなく見た。毎月の振込記録。同じ口座に、同じ金額。六万円。長い期間にわたって続いていた。明細の日付を遡ると、二十年以上前から続いていることが分かった。

受取人の名前。

神崎 樹。

澪は動きを止めた。父と同じ苗字。

書類の下に、封筒が一つ混ざっていた。古い封筒だ。中に写真が入っていた。取り出す。

七五三の写真。神社の境内で撮られたものだ。着物を着た五歳くらいの男の子が、女性と並んで立っていた。女性は澪の母ではない。見たことのない人だ。

男の子の目が、父に似ていた。眉の形が、口元が、父の若い頃の写真で見たそれと重なった。

澪は写真を持ったまま、動けなくなった。

書斎の時計が、午前二時十七分を指していた。外は静かだ。山の夜は、東京の夜より深い。

神崎 樹。私の知らない、神崎。お父さんの、知らない側面。ということは——私が憧れ、恐れ、真似てきた「完璧な父」は、最初から、完璧ではなかった。

私はずっと、完璧でない人間の作った「完璧さ」を、目標にしてきた。

手が震えていた。

今度は、感情の名前が、はっきりと分かった。

怒り、だった。誰に向けられているのかが分からない怒りが、手から始まって、腕を上がって、胸の中に広がっていく。

澪は写真を元の位置に戻して、書類を元のように広げたままにして、電気を消して、書斎を出た。

廊下を歩いて、自分の部屋に戻った。

布団の中に入って、目を開けたまま、夜が明けるのを待った。


第10章 亀裂の形

朝の光が障子を白くした。

澪は起き上がって、顔を洗って、台所に行った。和子がすでに朝食を作っていた。みそ汁の匂い、焼き海苔の匂い。

澪はテーブルに、昨夜見た振込明細書を一枚置いた。

和子が振り返らなかった。

「知ってたの」

和子の手が、一瞬止まった。鍋を持ったまま、一秒だけ固まる。そしてまた動く。

「……ずっと前から」

「なぜ言わなかったの」

「あなたに言って、何が変わるの」

澪は椅子を引いて座った。怒鳴りたい気持ちがある。でも、声が出てこない。声を出す前に、言葉を選ぼうとする。選ぶための言葉が、今朝はうまく見つからない。

「変わらなくても、知る権利があった」

和子がゆっくり振り返った。目が赤い。昨夜、泣いていたのだろう。

「そうね。ごめんなさい。でも澪——あなたはお父さんのことが好きだったでしょう。その気持ちを、守りたかった」

澪はみそ汁を一口飲んだ。

和子の言葉の意味は、分かる。分かるが、納得できない。分かることと納得することは別だ。

「樹くんって、今どこにいるの」

「ええ」

「今、どこで暮らしてるの」

「長野の南の方だと思う。お父さんとの間には、直接のやりとりはもうほとんどないけど」

「二人は会ったことがあるの」

「ない。お父さんも、ない」

澪は明細書を手に取った。

「二十年間、毎月送り続けてる」

「ええ」

「それが、お父さんの誠実さなのか、罪滅ぼしなのか、私には分からない」

和子が静かに言った。

「私にも、分からない。でも続けてることは、本当のことよ」


昼前に、徹の書斎に入った。

徹はすでに気づいていた——澪の顔を見た瞬間に、昨夜書斎に入ったことを悟ったはずだった。それでも何も言わずに、澪が来るのを待っていたのだろう。

澪が椅子に座った。長い沈黙があった。今度は重い沈黙だ。

澪が先に口を開いた。

「樹くんっていう名前なの」

「……ああ」

「今、どこにいる人なの」

「長野の南の方で、暮らしている。母親と一緒に」

「会ったことはあるの」

「ない」

「会わなかったのは、なぜ」

徹がしばらく黙った。

「……分からん。会えなかったのかもしれない」

澪は窓の外を見た。雪が溶けかけた庭。縁側の端に、鳥が一羽止まってすぐに飛んでいった。

「お父さんが完璧じゃなかったとは、思ってなかった」

徹は何も言わなかった。

「ただ——お父さんの引いた線の内側にいないといけないと、ずっと思ってた。それがお父さんへの誤解だったのか、正しい読み取りだったのか、今は分からない。でも私、その線を守ることが正しくあることだと思って生きてきた。その線が、お父さんから来てたのかどうか、聞きたかった」

徹は窓の外を見たまま、答えなかった。

答えないことが、答えなのかもしれなかった。

澪は立ち上がった。ドアに向かう。ドアノブに手をかけたとき、徹が言った。

「お前は……俺の思い通りに、生きなくていい」

澪は振り返らなかった。

「……遅い」

ドアを閉めた。

廊下で、一度だけ深く息を吐いた。


第11章 東京に戻る

日曜日の午後、長野を出た。

新幹線のホームで、和子が見送ってくれた。手術の日程が決まったら知らせると言った。澪は頷いた。二人とも、言葉が少なかった。でもそれは、いつものことだ。

「気をつけて」と和子が言った。

「うん」と澪は言った。

新幹線が動き出した。ホームから和子の姿が遠ざかっていく。小さくなる。手を振らなかった。振り方を、なぜか忘れていた。

お母さんの背中を、いつから見ていなかっただろう。あの人もずっと、何かを抱えていた。お父さんの秘密を、二十年以上。私には言えなかった。私への愛情から、言えなかった。

愛情から、言えないことがある。それはどういう種類の愛情なのか、私にはまだよく分からない。

景色が逆方向に流れていく。山が遠ざかって、建物の密度が上がってきて、東京が近づいた。


スマートフォンに正樹からのメッセージが届いていた。

「帰り、何時ごろ? 夕飯作って待ってるよ」

澪は画面を見つめた。正樹は何も知らない。父の秘密も、澪の今の状態も、昨夜書斎で感じた怒りも。

正樹は夕飯を作って待っている。それが正樹の誠実さだ。責めることができない。でも、その誠実さを今夜受け取れる気がしなかった。

返信を打ちかけて、止まった。

代わりに、蓮にメッセージを打った。

「帰り道です。少し、話せますか」

送信してから、自分が正樹ではなく蓮に送ったことに気づいた。しばらくスマートフォンを手に持ったまま、考えた。

三分後、蓮から返信が来た。

「神楽坂にいます。来られそうなら」

澪は正樹に「今夜は自分のアパートに帰る、ごめん」とメッセージを送って、スマートフォンをしまった。


神楽坂の駅から歩いていくと、劇場の近くの公開スペースに蓮がいた。

ベンチに座って、缶コーヒーを二つ持っていた。澪が来るのを見て立ち上がり、一つを差し出す。

「寒くないですか」

「大丈夫です」

二人でベンチに座った。蓮は何も聞かない。澪が話したければ話す、という距離感だ。

夜風が、少し冷たい。

澪は缶コーヒーを両手で包んだ。

しばらく沈黙があった。遠くで車の音がした。

「父に、知らない子どもがいた」

蓮は顔を向けなかった。ただ、聞いている。

「二十年以上、隠してた。母は知ってた。私だけ知らなかった」

「……そうですか」

「怒ってる。でもそれだけじゃない。なんか、崩れた感じがして。お父さんへの怒りじゃなくて、自分が今まで何を信じてたんだろう、って」

蓮がゆっくり言った。

「信じてたものが崩れると、自分まで崩れた気がしますよね」

「そう。そう、です」

澪の声が少し揺れた。

蓮は何も言わなかった。ただ、隣にいた。

しばらくして、蓮が静かに聞いた。

「今夜、ここに来てよかったですか」

澪は少し考えた。

「よかったです。帰りに正樹のところに寄るつもりだったんですけど、なぜかここに来てしまって」

「正樹さんというのは」

「婚約者です」

蓮は頷いた。それ以上聞かなかった。

東京の夜の音が、静かに流れていった。

隣に、いる。それだけなのに、東京に戻ってきた気がした。長野でずっとどこか宙に浮いていた感覚が、ベンチに座ったこの瞬間に、少しだけ落ち着いた。蓮さんが何かをしてくれたわけではない。ただ、隣にいる。


第12章 名前のない涙

神楽坂から帰宅して、シャワーを浴びた。

正樹のマンションには戻らなかった。自分のアパートに直接帰った。一LDKの小さな部屋で、物は少ない。本棚と、デスクと、ベッドだけがある。

浴室に入って、シャワーを出した。お湯が背中を叩く。

鏡がある。曇りかけた鏡に、自分の顔が映っていた。

雨の夜、タクシーの窓に映った自分の顔を、よく知らない人の顔のようだと思った。あの夜と同じ顔が、今夜は鏡の中にある。でも今夜は、違う見え方をした。

知っている顔だ、と思った。

泣いている顔だと気づいた。

いつから、か分からない。シャワーの水と混ざって、どっちがどっちか分からない。でも泣いている。

澪は壁に手をついて、床に座り込んだ。タイルが冷たい。シャワーのお湯が頭の上から流れ続けていた。

泣き方を、忘れていたわけじゃなかった。ただ、泣く場所がなかっただけだ。今夜、蓮さんが隣にいたから、東京に帰ってきてから、ようやく泣けた。誰かが隣にいた後だから、一人になって初めて泣けた。それが、どういう意味を持つのか、今夜は考えない。

どのくらいそうしていたか分からない。気がつくと、泣いていなかった。シャワーを止めて、立ち上がった。


翌朝、泣き腫らした目でオフィスに来た。

ファンデーションで目の下を隠した。プロだから、そのくらいはできる。でも松田には分かったようだった。澪がデスクについて数分後、松田が何も言わずにデスクの端にホットレモネードを置いていった。

澪はそれを見て、一瞬止まった。

「ありがとう」

松田が「いえ」と言って自席に戻った。

私は昨日まで、松田くんのことをエンジニアとして見ていた。実装コストを計算する人、バグを直す人。今日は初めて、人間として見た気がする。誰かの状態に気づいて、言葉ではなく行動で応える人として。それに気づくのが遅すぎた。


夜、蓮から電話がかかってきた。

テキストではなく、音声の電話だ。着信音が鳴って、澪は少し驚いてから出た。

「昨日、大丈夫でしたか」

「大丈夫でした。帰ってから、泣きました」

「それは……良かった」

「泣いたのが?」

「はい」

澪は少し笑った。

「変なこと言いますね」

「泣けない人が泣けたのは、良かったことだと思って」

少し間があった。澪は窓の外を見る。夜の渋谷の灯りが、遠くに見えた。

「蓮さんは、泣けますか」

蓮がしばらく黙った。

「……あまり」

「私たちと逆で、でしたよね。劇場で言ってた」

「覚えてたんですね」

「全部、覚えてます」

電話の向こうで、蓮が小さく息をついた。

「また、会いませんか。週末」

「はい」と澪は即座に言った。


第13章 照明の当たらない場所

土曜日の昼過ぎ、蓮から連絡が来た。

「仕込みを手伝ってもらえますか。人手が足りなくて。力仕事もありますが」

「行きます」と澪は返した。

スニーカーを履いて、動きやすい服で出かけた。


劇場は下北沢にあった。小屋と呼ばれる規模の、百人も入れば満席になる空間だ。舞台の上には大道具が仮置きされていて、天井にはまだ照明機材が吊られていなかった。

蓮は先に来ていた。スタッフが三人いて、全員で仕込みを進めていた。

「来てくれてありがとうございます。重いものを運ぶのと、ケーブルを束ねる作業をお願いしたいんですが」

「分かりました」

澪は言われた通りに動いた。アルミのケースを舞台裏から客席側に運ぶ。ケーブルをマジックテープで束ねる。機材をラックに固定するための工具を蓮に渡す。

それぞれの作業に、理由があった。この照明はこの位置に、このケーブルはこのルートで、この角度でこのスポットを当てる。蓮が短く説明して、澪は理解して手を動かす。UXの仕事で設計の意図を理解するのに慣れているから、物理的な作業の中にある意図の読み取りは得意だった。

途中、蓮から「この器具の角度を少し右に振ってみてください」と頼まれた。脚立に上がって、フレネルの本体を両手で持ち、慎重に動かそうとした。固くて動かない。もっと力を入れた。器具が急にがくんと動いて、行きすぎた。

蓮が下から見上げて言った。

「力で動かさなくていいです。ロックを緩めれば、指一本で動く」

澪はロックのネジを確認した。締まっていた。緩めると、器具はするりと動いた。

「光は、押し込まなくても届くんです。向けるべき場所にきちんと向けさえすれば」

澪はもう一度、今度は指先だけで角度を整えた。器具が静かに止まった。

光は、押し込まなくても届く。力めば力むほど、行きすぎる。それはこの器具だけの話ではない気がした。私はずっと、何かを届かせようとして、力んできた。正しくあろうとして、力んできた。力みすぎたハンドルは、かえって動かない。

その言葉が、静かに胸に落ちた。


仕込みが終わったのは、夕方近くだった。

スタッフの二人が先に帰って、蓮と澪だけになった。蓮が劇場の二階の小部屋に案内した。窓がある。下北沢の夕暮れが見えた。光が建物の上を流れていった。

二人で窓際に立って、外を見た。

しばらく沈黙が続いた。

蓮がぽつりと言った。

「五年前、好きな人を亡くしました」

澪は動かなかった。蓮が続ける。

「僕が照明を担当した舞台の帰りに、事故で。彼女は一人で帰っていた。その夜、本当は僕が一緒に帰るつもりだったんですが、片付けに時間がかかって。一人で先に行っていいよと、言ってしまった」

「……蓮さんのせいじゃない」

「頭では分かってる。でも、その夜のことを、まだ繰り返し考えます。あの日もし僕が一緒にいたら、って」

澪はしばらく黙って、夕暮れの下北沢を見た。

「蓮さんが最初の夜、事故の人を助けたのは——」

「意識してたわけじゃないけど……そうかもしれない」蓮は少し間を置いた。「何ができるかと思って、近づいた。できることが何もなかったら、それでもただ隣にいればいいと思って」

「私に『震えてる』と言ったのも」

「あなたが本当に震えていたから、言いました。それだけです」

澪は蓮を見た。横顔だ。窓の外を見たまま、蓮は続けた。

「でも、声をかけてよかったと思っています」

「なぜですか」

蓮が澪の方を見た。

「あなたが今日、仕込みを手伝いに来てくれたから、だと思います」

それだけだった。

澪は窓の外に目を戻した。

蓮さんは五年間、誰かを亡くして、その重さを抱えながら、舞台の照明を当て続けてきた。誰かの物語を照らし続けてきた。それが優しさなのか、贖罪なのか、それとも単に仕事が好きなのか、私にはまだ分からない。でも、そういう人が隣にいる。


第14章 近づかないように近づく

二週間後に、正樹と久しぶりに食事をした。

正樹が予約したレストランで、向かい合って座った。正樹はスーツ姿で、仕事帰りだった。澪はオフィスカジュアルのまま来た。

「最近どう?」と正樹が聞いた。

「普通。仕事が少し落ち着いてきた」

「お父さんの手術、いつ?」

「来月の十四日」

「一緒に行こうか、もし良ければ」

「大丈夫。私が行く」

正樹は何も言わなかった。澪の返答に、何か感じたかもしれない。でも顔には出さない。それが正樹だ。

食事が進んだ。正樹が仕事の話をした。新しいキャンペーンのこと、クライアントとの難しい交渉のこと。澪は聞いて、適切な相槌を打った。正樹の話は分かりやすく、伝えようとする意図が明確で、聞き取りやすい。

でも澪は、食事の間ずっと、正樹の言葉が「正しい場所」に着地しているのを感じていた。正しい。届かない。

正樹が言った。

「最近、少し変わった気がする。澪」

「そう?」

「なんか……遠い感じがする。何かあった?」

澪は一瞬だけ、全部話してしまおうかと思った。父のこと。蓮のこと。自分の中で何かが動いていること。

「お父さんの手術のこと、少し心配で」

嘘ではない。でも全部でもない。

正樹は「そっか、大変だったね」と言って、テーブルの上の澪の手に自分の手を重ねた。

澪は手を引かなかった。でも、何も感じない自分に気づいた。温度は感じる。皮膚が接触している感覚はある。でも、それ以上のものがなかった。


翌日の昼、蓮と神楽坂を歩いた。

仕込みの帰りに少し時間があると蓮から連絡が来て、澪がランチの時間を合わせた。

坂を下りながら、澪が言った。

「蓮さんって、私に近づかないように近づいてきますよね」

蓮が立ち止まった。

「……そう見えますか」

「見えます。傍にいるけど、踏み込まない。聞くけど、引っ張らない。優しいといえば優しいけど、なんか——距離が計算されてる気がして。それって優しさからそうしてるんですか。それとも、何か怖いんですか」

蓮はしばらく黙っていた。坂の途中で立ち止まって、遠くを見ていた。

「両方、だと思います」

「どっちの方が大きいですか」

また沈黙。今度は長い。

「……怖い方が、少し大きいかもしれない」

澪は歩き出した。蓮が隣に並ぶ。

「正直に言ってくれてありがとうございます」と澪は言った。「私も、同じなので」

「怖い、ということですか」

「近づきたいけど怖い、ということが同じです」

二人は坂を下りていった。

言葉はなかった。でも、さっきまでと少し違う空気があった。弱さを同じ量だけ見せ合った後の、静かな均衡みたいなもの。


第15章 全部が揺れる前夜

Shiro Inc.の新機能ローンチは、予定通り三週間後に行われた。

ローンチ翌日の朝、松田からSlackにメッセージが届いた。

「神崎さん、バグ出てます。カテゴリ予測のキャッシュ処理に問題があって、一部のユーザーで別のユーザーのデータが表示されてしまっています」

澪はメッセージを読んで、三秒で状況を把握した。プライバシーに関わるバグだ。人数によっては即時ロールバックが必要になる。

「影響範囲は」

「今集計中です。ざっくり三万人前後」

「石川さんに上げる。ロールバックの準備始めて」

その後の二時間は、緊急対応だった。石川に状況を報告し、エンジニアチームとリアルタイムで連携し、ユーザーサポートに状況を共有し、対外的なアナウンスの文章を作った。

並行して、バグの原因を特定した。キャッシュキーの設計が、ユーザーIDではなくセッションIDに紐づいていた。複数のユーザーが同じセッションを共有するケースを想定していない設計ミスで、澪が最終レビューで見落としていた箇所だった。

明け方に、バグが修正された。影響を受けたユーザーへの個別通知が送られた。

松田が「神崎さんのおかげです」と言った。

「みんながいたから」と澪は言った。

以前の澪なら言わなかった言葉だ。松田は気づいていないかもしれない。でも澪は気づいていた。

少しだけ、変わった。まだ小さい変化だけど、確かにある。


金曜日の夜に、沙良と渋谷で飲んだ。

久しぶりだった。沙良はいつも通り明るかった。仕事がうまくいっていること、新しいクライアントとのプロジェクトのこと、最近ハマっているドラマのこと。話題は次から次へと出てきた。

澪も聞いて、笑って、自分のことも少し話した。仕事のバグのこと、父の手術のこと。

でも今夜、澪には沙良の「明るさ」の中に、かすかな緊張が見えた。

それは最近、蓮との時間で気づいた感覚に近かった。人が何かを隠しているとき、言葉は明るくなる。声のトーンが少し高くなる。笑い声が、わずかに早くなる。

二杯目のワインを飲みながら、澪がふと言った。

「沙良、何か隠してることない?」

一瞬だけ、沙良の表情が固まった。〇・五秒。それから「何それ急に」と笑って流した。

「なんとなく」と澪も流した。

二人でグラスを合わせた。話題が変わった。

でも澪は気づいていた。あの〇・五秒のことを、帰りの電車の中でもずっと考えていた。


その週の土曜日の深夜、蓮からメッセージが届いた。

「来週、地方の劇場で仕込みがあります。三日間。帰ったら、話したいことがあります」

澪は画面を見つめた。

蓮がそんな言葉を使ったのは、初めてだった。いつも蓮は、情報を提示する。事実を言う。感情を予告しない。

「話したいことがある」という言葉は、蓮らしくなかった。だからこそ、重かった。

澪は返信を打つ前に、少しの間、画面を見つめたままでいた。旅館の話を蓮にしたことが、不意に浮かんだ。先週、「父の退院後、家族で長野の旅館に一泊するかもしれない」と話していた。その話を、蓮は静かに聞いていた。

「私も、あります」

送信して、澪は天井を見上げた。

何かが、動き始めている。止められない気がする。止めたくない気もする。怖い。でも、この怖さは——悪くない。

植物に水をやるのを、今夜は忘れなかった。


第三幕 輪郭を消して


第16章 話したいこと

三日後の夜、蓮が戻ってきた。

神楽坂の定食屋に、いつものカウンター席。大将は二人を見て何も言わなかった。

今夜は食事の途中から、会話が少なかった。蓮も澪も、それぞれの手元を見たり、大将の仕事を眺めたりしていた。普通の沈黙ではなかった。何かを前にしている沈黙だった。

食事を終えて、大将が厨房に引っ込んだ後、蓮が先に口を開いた。

「話したいこと、というのは——澪さんのことが、好きです」

澪は箸を置いた。

「ただ、正直に言うと、怖いです」と蓮は続けた。「また誰かを——大切にしようとして、失うことが。だから、この気持ちを言っていいのかどうか、三日間、ずっと考えていました」

澪はしばらく、カウンターの木目を見ていた。

告白というものは、もっと明るい場所でされるものだと思っていた。レストランとか、夜景のきれいな場所とか。でも今、ここで言われたことが、ちょうどいい気がした。大将の作った定食の残り香がある、八席だけのカウンターが、ちょうどいい。

「言ってくれて、良かった」と澪は言った。

「……澪さんは」

「私も、話したいことがあります。でも今夜は、蓮さんの話を聞いた夜にしたい。私の話は、もう少し待ってもらえますか」

蓮は「はい」と言った。

今夜は、言った夜だった。受け取った夜だった。答えを出す夜ではなかった。

蓮さんは怖いと言った。私も怖い。怖い同士が、怖いと言い合えた。それだけで、今夜は十分だと思った。


帰り道、一人で神楽坂の坂を下りながら、スマートフォンを見た。

正樹からのLINEが入っていた。

「今週末、両家の顔合わせの件、そろそろ日程決めたいんだけど」

澪は立ち止まった。街灯の下に立って、画面を見ていた。

正樹。正樹は悪くない。何も間違っていない。でも私は、正樹の隣で、ずっと息を少しだけ止めて生きていた。最初は気づかなかった。でも今は気づいてしまっている。気づいてしまったら、元に戻れない。元に戻れないなら、どこへ進むかを決めなければならない。

澪はメッセージに既読をつけた。返信はしなかった。


自分のアパートに帰って、デスクに座った。

UXの仕事でよく使う作業がある。ユーザーの感情の流れを時系列で図解するカスタマージャーニーマップというものだ。あるユーザーが、あるサービスを使い始めてから終わるまでの間に、何を感じ、何につまずき、何に満足したかを可視化する。

今夜、澪は自分自身のジャーニーマップを書こうとした。

白紙のノートを開く。

ペンを持つ。

どこから始めるか。正樹と出会ったときか。蓮と出会ったときか。父の書斎を開けた夜か。

書き始めて、すぐに止まった。

自分のことは、図解できない。他人のユーザー体験は設計できるのに、自分の輪郭は描けない。誰かに引いてもらった線の内側を塗ることしかしてこなかったから、ペンの持ち方が分からない。それが欠陥なのか、それが人間というものなのか、今夜はまだ分からない。

ノートを閉じた。電気を消した。

暗い部屋の中で、澪はベッドに横になって、天井を見た。

正樹と別れよう。

その考えが、はっきりと頭の中に浮かんだ。

浮かんだ瞬間、涙が出た。悲しいからではなかった。決めたから、だ。決めたということは、もうここから逃げられないということだ。それが怖くて、それが涙になった。


第17章 ドミノ

日曜日の昼に、正樹のマンションに行った。

呼び鈴を押す前から、気持ちは決まっていた。言い訳を作らない。責任を転嫁しない。全部、自分の言葉で言う。

ドアが開いた。正樹はコーヒーカップを持っていた。休日の午後だった。「どうしたの、連絡なしで」と言いかけて、澪の顔を見て止まった。

「上がってもいい」と澪は言った。

正樹は黙って道を空けた。

澪は靴を脱いで、リビングに入った。立ったまま、正樹の方を向いた。正樹がカップをテーブルに置いて、向き直った。

「別れたい」

正樹は一瞬固まった。それから静かに「……なんで」と聞いた。

「あなたが悪いわけじゃない。でも私、ずっと正樹のことを『正解』として選んでた。正解かどうかで選んでた。それはあなたへの誠実じゃなかったと思う」

「好きじゃなかったの?」

「好きだった。でも、愛してたのかは……分からない。その違いを、今になって初めて考えてる。遅くてごめん」

正樹が立ち上がって、窓の外を見た。背中が静かだ。外は曇り空で、渋谷の街が灰色に見えた。

しばらくして、正樹が言った。

「……俺も、ずっと言えてないことがあった」

澪は動かなかった。

「沙良と。澪と付き合う前に、一度だけ」

澪の時間が、止まった。


正樹が全部話した。

三年前のことだった。澪と交際を始める直前の時期に、仕事の打ち上げの後で沙良と一夜関係になった。その後すぐに澪との交際が始まった。沙良には「言わないでいてほしい」と頼んだ。沙良は五年間、黙っていた。

正樹が「ごめん」と言った。

澪は怒鳴らなかった。泣かなかった。部屋の中で、静止していた。

窓の外を見たまま、正樹は何も言わなかった。

沙良が知っていた。五年間。澪が正樹と付き合い始めてからも、婚約してからも、ずっと。

「沙良は、黙ったままでいるつもりだったの」

「……分からない。俺が言うなって頼んだから」

「あなたが頼んだから」

「ああ」

澪は踵を返した。コートをハンガーから外した。指が少し震えていた。

「教えてくれてありがとう。遅かったけど」

それだけ言って、玄関に向かった。

「澪」と正樹が言った。

澪は振り返らなかった。

「澪、本当にごめん」

「うん」

ドアを開けた。廊下に出た。ドアが閉まった。

エレベーターのボタンを押した。扉が開く。中に入って、閉じる。

鏡張りのエレベーターの中に、一人の自分が映っていた。顔が白い。でも、崩れてはいなかった。

全員が、何かを隠していた。お父さんも、お母さんも、正樹も、沙良も。私だけが知らなかった。でも——私も、自分の気持ちを、自分に隠していた。正樹を「正解」として選んだことで、自分が何を感じているかを隠していた。だから気づけなかったのかもしれない。

一階に着いた。


マンションを出て、すぐに沙良に電話をかけた。

「もしもし」と沙良が出た。明るい声で「どうしたの?」と言う。

「正樹から聞いた」

沈黙。

「……澪」

「会える? 今夜」

「……うん」


待ち合わせは渋谷の公園だった。

人気のない夜の公園に、沙良が先に来ていた。いつもの香水がした。フローラルで、澪が好きな香りだった。

ベンチに並んで座った。

沙良が先に口を開いた。

「ごめん。ずっと、言えなかった。言おうとしたことは、何度もあった。でも澪が幸せそうにするたびに、私が言ったら、その幸せが壊れると思って」

澪は黙って聞いていた。

「言い訳だって分かってる。ずるかった。でも——澪のことが好きだから、だったのも、本当なの。友達でいたかった。澪の隣にいたかった。それが、怖くて」

「沙良、一個だけ聞いていい」

「うん」

「正樹のことが、今も好き?」

沙良が目を伏せた。長い間があった。

「……分からない。でも、澪との友達でいたかった気持ちの方が、ずっと大きかった。それは、本当」

澪は息を吐いた。

怒りはある。でも沙良を憎む気持ちにはなれなかった。沙良の「守りたかった」という気持ちが、澪には分かるから。分かってしまうから、単純に裁けない。

「今夜は、帰る。しばらく、連絡しないかもしれない」

「……うん」

「でも——終わりにするとは、言ってない」

沙良の目から涙が落ちた。

澪は立ち上がって、歩き始めた。振り返らなかった。

公園を出て、駅に向かう道を歩きながら、澪は何も考えないようにしていた。考え始めると、全部が一度に来そうだから。今夜は、歩くだけでいい。


第18章 崩れた後の形

婚約破棄から一週間が経った。

澪は仕事に来ていた。顔色は優れないが、手は動いていた。

月曜日の朝、デスクについて五分後に、松田が何も言わずにホットレモネードを置いていった。先月のバグ対応のときと同じように。

今度は澪が先に言った。

「松田くん、この前のバグ対応、本当に助かった。私の設計ミスが起点だったのに、文句も言わずについてきてくれて」

松田が驚いた顔をした。

「神崎さんが謝るの、初めて聞きました」

「そう?」

「はい。なんか……ちょっと怖いです」

澪は少し笑った。松田も笑った。

謝ることを、ずっと負けだと思っていた。完璧な設計者は失敗しない、失敗したなら謝罪は弱さの証明だと。でも今、松田くんの顔を見て気づいた。遊びのない設計が壊れやすいように、間違いを認められない関係も、どこかで必ず歪む。謝れることは、遊びを持てることだ。そう考えると、今まで自分がどれほど硬く固まっていたか、少し分かる気がした。


その週の木曜日の夜、澪から蓮に電話をかけた。

「正樹と別れました」

短い沈黙があった。

「……そうですか」

「蓮さんのことが好きだから、というより——自分に正直になろうとしたら、そうなった。蓮さんへの気持ちは、その後の話です」

少し間があった。

「それでよかったと思います」

「蓮さんは、怖いって言ってたけど」

「まだ怖い」

「私も」

「でも——前より、少し、怖くない気がします」

澪は窓の外を見た。夜の東京。ビルの灯りが、無数に並んでいた。

「私も」

電話が静かになった。

「付き合ってください」とも「好きです」とも、どちらも言わなかった。でも何かが決まった夜だった。言葉にならなかったものが、この通話の中に確かにあった。


翌週の月曜日が、父の手術の日だった。

澪は長野に来ていた。病院の手術待合室で、和子と並んで座っていた。

和子がリップクリームを塗る手を止めずに言った。

「澪、正樹さんと別れたって、聞いた」

「うん」

「……そう」

それだけだった。和子は責めなかった。澪も説明しなかった。

待合室のテレビが、音を小さくして流れていた。誰かの会見のニュースだ。

「お母さん」と澪は言った。

「なに」

「ずっと聞きたかったんだけど。樹くんのことを知ったとき、お母さんはどうしたかったの。本当は」

和子が少し間を置いた。

「出て行こうかと思った。何度も」

「でも」

「でも出て行けなかった。あなたがいたから、という言い訳が一番大きかったけど、それだけじゃなくて。お父さんのことを、それでも好きだったから」

澪は「そっか」と言った。

「許したの?」

「許したとか、許してないとか、そういう話じゃなかった。ただ、一緒にいることを選んだ。その選択が正しかったかどうかは、今でも分からない」

澪はそれを聞いて、正樹のことを思った。正樹への怒りと、正樹と過ごした時間の本物さと、あの頃の自分が何を感じていたのかという問いと。どれが正しくて、どれが間違っていたか。分からないまま、人は選ぶ。選び続ける。

医師が来て「手術が終わりました、成功です」と言った。

和子が小さく泣いた。

澪は和子の背中に手を当てた。

お母さんの背中は、小さかった。ずっとこんなに小さかったんだろうか。私は一度も、ちゃんと見ていなかった。


第19章 遊びの設計

翌日の昼、徹の病室に行った。

点滴をつけて、窓の外を見ていた。長野の空は、今日は晴れていた。

「来たか」と徹が言った。いつも通りの言葉。でも声が、少し柔らかい。体が弱ると、声が変わる。

澪は椅子を引いて座った。

窓から光が入っていた。病室の白い壁に、木の影が揺れていた。

しばらく沈黙があった。今度の沈黙は、重くなかった。

徹が言った。

「仕事は、楽しいか」

初めて聞かれた質問だった。「問題ないか」ではなく、「楽しいか」。

澪は少し考えて、正直に言った。

「楽しい部分と、しんどい部分がある。でも——最近、少しだけ、仕事の意味が変わった気がする」

「変わった?」

「前は、完璧なものを作ることが目的だった。誰も迷わないシステムを作ること。遊びのない、ぴったりした設計。でも今は、少し考えが変わってきて」

徹は点滴の管を見ていた。続きを待っているようだった。

「遊びがない設計は、壊れやすいんだと気づいた。人も同じで、少し余裕があるくらいの方が、長く動き続けられる。誰かが迷っているとき、すぐに正解を渡すより、一緒に考える時間の方が大事なことがある、って」

徹は黙って聞いていた。

「お父さんの仕事も、そういうとこがあったんじゃないかと思って。建物を作るのって、誰かの場所を作ることだから」

徹が窓の外を見たまま、小さく言った。

「……そうかもしれんな」

それだけだった。

でもそれが、父と娘の、初めての「仕事の話」だった。怒りでも、謝罪でも、許しでもなく。ただ並んで、同じ方向を見た。それが今の二人にできる、精一杯の近さだった。


東京に戻って、新しいプロジェクトを始めた。

Shiro Inc.の次期バージョンのコンセプト設計だ。澪がプロポーザルを書いて、石川に提案した。テーマは「遊びのデザイン」。

機械の歯車には、意図的にわずかな隙間が設けられている。ぴったりと噛み合わせすぎると、熱膨張や微細な誤差で壊れる。その隙間のことを、工学では「遊び」と呼ぶ。ハンドルにも遊びがある。ぴたりと固定されたハンドルは、かえって危ない。

家計管理のアプリも、同じだと澪は思っていた。入力フォーム、グラフ、数字。機能を詰め込むほど、ユーザーはそのシステムの歯車になる。でも本当に必要なのは、数字を眺めながら自分のペースで考えられる余地、何を感じたかをメモできる隙間、完璧な分類より不完全なままでいられる時間かもしれない。遊びがあるから、壊れない。遊びがあるから、人は自分の言葉を持てる。

松田に設計案を見せると、「神崎さん、これ、いつもと全然違いますね」と言った。

「そう?」

「なんか……呼吸できる感じがします、このデザイン。今までのは、ちゃんとしてる感じで、でもなんか息苦しかったかもしれない」

澪はモニターを見た。輪郭を消して、意図的に空けられた空間。

「そうかもしれない」

遊び。光は押し込まなくても届く。人も、同じかもしれない。ぴったり合わせようとするほど、かえって動かなくなる。遊びがあるから、壊れずに動き続けられる。私はずっと、自分にも人にも、遊びを許してこなかった。


夜、沙良からメッセージが届いた。

「元気にしてる? 無理に返事しなくていいけど、澪のこと考えてる」

澪はしばらく画面を見つめた。

沙良への怒りは、まだある。でも沙良がいない未来を想像すると、何かが欠けた。それが答えなのかどうかは分からない。でも、今の正直な感覚だった。

返信した。

「元気。少し時間がかかるけど、ちゃんと話したい。待ってて」

送信して、スマートフォンを置いた。

沙良のことを、まだ許せていない。でも許せていない自分を責めることも、今夜はしない。感情には時間がかかる。設計と違って、感情には締め切りがない。それがやっかいで、それが豊かさでもあるのかもしれない。

デスクの観葉植物が、青々としていた。


第20章 輪郭を消して

父の退院から二週間後、和子の提案で、家族で長野の旅館に一泊することになった。

車で一時間ほどの山間にある、創業八十年の宿だ。廊下が軋む。建具が少し歪んでいる。でも障子の向こうから入ってくる光が、丁寧だった。

夕食を、家族三人で食べた。テーブルに地酒が出て、徹が珍しく少し飲んだ。頰がわずかに赤くなった。

徹が言った。

「この旅館、お前が生まれた年に来たな」

澪は箸を止めた。「そうなの」と言う。

「お前がまだ生まれて間もない頃に、なぜか連れてきた。首も据わっていないのに」

「なぜ?」

徹が少し考えた。

「……分からん。見せたかったんだろう、山を」

和子が「本当に無茶なことするんだから、あの人は」と言って、笑った。

澪は和子が笑うのを、久しぶりに見た気がした。

お父さんが引いた線の内側だけを塗ってきた、と思っていた。でも、その線を引いた人が、生まれたばかりの私に山を見せたかった人でもある。線を引く人間と、山を見せたい人間は、同じ一人の人だ。人は、どちらか一方ではない。誰かの引いた輪郭で育ったからといって、その人のすべてが輪郭だったわけではない。


両親が部屋に戻った後、澪は一人で縁側に出た。

春の夜の空気が、冷たくて、きれいだった。星が出ていた。山の稜線が、月明かりでうっすらと見えた。

スマートフォンを見ると、蓮からメッセージが届いていた。

「今夜、そちらにいます。仕込みの帰りに、少し回り道をしました。会えそうなら」

澪は思わず笑った。

来ると言わない。来たと言う。それが蓮だ。少し回り道をした、と書いてあった。それだけで十分だった。

「旅館の前に来てください」と返した。

十五分後、蓮が来た。コートの肩に、少し雪が残っていた。

「寒くなかったですか」

「慣れてます」

旅館の女将に頼んで、縁側に座れるようにしてもらった。毛布を二枚借りた。

二人で並んで、縁側に座った。毛布を膝にかける。

夜の山が、前にあった。


しばらく黙っていた。

虫の声がした。遠くで沢の音がした。東京では聞かない音だ。

澪が口を開いた。

「蓮さん、私、ずっと誰かに引かれた輪郭の中を生きてきた気がするんです。ここまでが自分の形、ってあらかじめ決まっていて、その線の内側をきれいに塗り続けてきた。よい大学、よい仕事、よい結婚。線からはみ出さないことが、正しくあることだと思ってた」

「今は、違いますか」

「線が、消えた感じがして。消えたというか——最初からなかったのかもしれないって、気づいた。自分の形だと思っていたものが、最初から誰かに描いてもらった形だったって。じゃあ私自身の形って、どこにあるんだろうって」

蓮がゆっくり言った。

「自分の輪郭は、動きながら決まっていくものじゃないですかね。描いてから動くんじゃなくて」

「動いたことがないから、どう動けばいいか分からない」

「分からなくて、当然だと思います。誰も教えてくれないから」

「蓮さんは、自分の形、見えてきてますか」

蓮は少し考えて、夜空を見上げた。

「……まだぼんやりしています。五年前から、自分がどんな形をしているのか分からなくなって、それからずっと、確かめないまま歩いてた。でも——前より少し、見えてきた気がします」

澪は正面を向いた。山が、暗い中でそこにあった。

「私も。前より、少し」


それから二人は、何も言わなかった。

毛布を膝にかけて、夜の山を見ていた。

蓮の手が、澪の手の隣に置かれた。触れるか、触れないかの距離。

澪はその手を見た。

大きな手だった。指先が少し荒れていた。照明の機材で、何年もかけて荒れた手だ。

澪は自分の手を重ねた。

蓮は何も言わなかった。澪も何も言わなかった。

春の夜風が吹いて、山が揺れる音がした。障子の向こうで、旅館の廊下が軋む音がした。どこかの部屋で、誰かが笑っていた。

輪郭がない。答えもない。でも隣に、人がいる。その人も自分の形をまだ探している。それでも、同じ夜を見ている。今の私には、それで十分だった。


翌朝、朝食の前に、澪はスマートフォンを手に取った。

新幹線の予約アプリを開いた。

長野から東京への便を検索した。

画面を見て、しばらく止まった。

アプリを閉じた。

スマートフォンをポケットにしまって、縁側に出た。山が、朝の光の中で昨夜とは違う顔をしていた。靄がかかっていて、尾根が白くなっていた。

冷たい空気を、一度深く吸った。

今日の自分の形が、まだ決まっていない。それが、怖くなかった。

澪は、翌日の新幹線のチケットを、まだ予約していなかった。